altgolddesu’s blog

つれづれなるままに日暮らし

室町 の検索結果:

先人たちの底力 知恵泉 選「世阿弥 競争社会を生き抜く“プロデュース力”」

…の見」の言葉を生んだ室町時代の能楽師・世阿弥。その生涯は将軍たちの思惑に翻弄され続ける日々だった。プレッシャーの中で培われた世阿弥の知恵とは 出演者ほか 【出演】髙田明,山崎怜奈,明治大学 教授…清水克行,【司会】高井正智 猿楽を芸術に高め「能」を大成させた世阿弥。12歳で猿楽興行に出演、その美少年ぶりが室町幕府3代将軍・足利義満の目に留まり、以後活躍。だが、その人生は自らが理想とした幽玄とは真逆。権力者との関係に悩み、大衆人気に惑い、ライバルとしのぎを削る、戦いの連続だった…

「魂宿る 刀剣」

…が作る、極上の刀剣▽室町時代から続く、砥ぎ師の本阿弥家。人間国宝が明かす「砥ぎの極意」▽居合の達人による、時代ごとの形と真剣の技▽平安時代に作られた国宝の刀の鞘(さや)には、にゃんと現存最古の猫の工芸!▽職人の共演!刀の鞘(さや)▽刀剣男士・三日月宗近(黒羽麻璃央)も参上!!<File511> www.google.com www.google.com www.google.com www.google.com www.nhk.jp ゲームをきっかけに火がついた日本刀ブーム。…

新宿区史年表

…om 難波宮や飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年(ただし旧暦12月8日なので、西暦に換算すると593年))から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。奈良時代(710年頃〜794年 = 84)平安時代(794〜1180年 = 386) 鎌倉時代〜江戸時代(武士の世の中 = 688)鎌倉時代(1180〜1336年 = 156)室町時代(1336〜1568年 = 232)安土桃山時代(1568〜1600年 = 32)江戸時代(1600〜1868年 = 268)

英雄たちの選択▽激突!三好長慶vs.足利将軍~室町幕府“終わりの始まり”~

室町幕府はなぜ滅びたのか?大きな転機として近年注目されるのが、信長に20年先んじて将軍を都から追放した三好長慶の活躍。時代を揺るがした将軍と長慶の対立に迫る! 織田信長が将軍・足利義昭を都から追放し、室町幕府を滅ぼしたことはよく知られるが、実はそれに20年先んじて、時の将軍を都から追放したのが、三好長慶。大名ですらなかった男が、下剋上を果たし、13代将軍・足利義輝と真っ向から衝突!畿内に独自の「三好政権」を打ち立てる。しかし、存在を脅かされた将軍・義輝も黙ってはいない…。室町…

岡山の偉人

…済宗の開祖)・雪舟(室町水墨画を大成した画聖)・たまかき(室町時代中期、新見荘の代官を支えた女性)・宇喜多直家、秀家(城下町岡山の基礎を築いた戦国武将)・小堀 遠州(“きれいさび”の茶道を確立した茶人)・宮本 武蔵(水墨画を描いた剣豪)・池田 光政、綱政(岡山藩の基礎を築いた藩主)・熊沢 蕃山(治山治水を指導した儒学者)・津田 永忠(数多の新田開いた土木巧者・岡山藩士)・万代 常閑(越中富山売薬の始祖・和気郡医)・古川古松軒(“百聞は一見に及ばず”実証的地理学者)・西山 拙斎…

第13回 (室町時代の社会) @ 日本の古代中世 ('17) 延元元年(1336年)5月 - 天正16年(1588年)1月13日

…oogle.com 室町時代における地方社会の様相を、高野山領紀伊国名手荘や九条家領和泉国日根野荘などの具体的事例について見て、農民の階層性と規模、年貢のあり方、刑罰の様子などについて考える。 bangumi.ouj.ac.jp 日本の古代と中世の歴史を、基本となる史料や史跡のあり方や国際的な交流との関わりから探る。時代としては、日本列島のはじまりから16世紀までの、国家が形成・整備され、やがてその仕組みが衰退し、地域社会が表面化するなか、再び統一政権が登場するまでを扱う。と…

第12回 (室町時代の政治史) @ 日本の古代中世 ('17) 延元元年(1336年)5月、九州から東上した足利尊氏が湊川の戦いで楠木正成を破る。 - 天正16年(1588年)1月13日、義昭は関白・豊臣秀吉

…政方針が示されたが、室町幕府の実質的な成立はこの時期とされる。北朝から権大納言に任ぜられた尊氏は「鎌倉大納言」と称され、鎌倉将軍(鎌倉殿)を継承する存在と見なされた。 翌月21日、後醍醐が大和国吉野に脱出し、南北両朝の並立状態が始まる。 延元2年(北朝建武4年、1337年)8月、鎮守府将軍として東北にあった南朝方の北畠顕家が西上の途に就き、明くる延元3年(北朝建武5年、1338年)1月には青野原の戦いで幕府軍を撃破したものの、その後の連戦の末ついに5月に戦死し(石津の戦い)。…

中古(鎌倉・室町時代)の旧山陽道和気往来

digioka.libnet.pref.okayama.jp 上東郡図〔じょうとうぐんず〕 万治4(1661)年頃の旧山陽道土田地区 www.google.com 2. 百間川の築造 https://www.cgr.mlit.go.jp/okakawa/kouhou/hyakenkaitiku/history/pdf/hyaken_syoushi_2.pdf 「上道郡図」(池田家文庫)は藩主池田光政の時代、. 万治4年(1661)に描かれた百間川築堤以前の古図で、. 北に龍ノ…

先人たちの底力 知恵泉「雪舟 失意の都落ち?!天才画家の逆襲」

混沌とした室町期。当時の画壇にフィットせず「落ちこぼれ」の雪舟。後世に残る画聖はいかにメジャーになったのか?おきて破りの大胆さを貫いた雪舟のサバイバルの知恵とは 【出演】古舘伊知郎,中川翔子,清水克行,【司会】新井秀和 国宝6点、他の画家に比べダントツに多い雪舟。だが若き雪舟は足利将軍の求める京都で主流の繊細な絵が描けなかった。転機は失意の中、都を去り山口大内氏の元で本場中国に渡ったこと。彼の地で「逸脱と非常識な画」を吸収し運命が変わっていく。そのより所となったセルフブランデ…

京都 応仁の乱 室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。

www.google.com ja.wikipedia.org 足利将軍家の権威・権力が失墜したことに起因する。8代将軍足利義政以降、有力な守護大名による権力闘争が激化し、結局、細川氏率いる東軍と山名氏率いる西軍に分かれ、幕府の主導権をめぐって争った[1]。 altgolddesu.hatenablog.com

禁野 嵯峨野 華西山東漸院念仏寺 あだしの念仏寺

…崩御の知らせを聞いた室町幕府の足利尊氏が嵯峨野に天竜寺を造営したのも、ここが大覚寺統ゆかりの地であった事による。こうした風景が大きく変わるのは、江戸時代初頭の1606年(慶長11年)に角倉了以が保津川を改修して大堰川を開いて以後のことである。嵯峨は丹波と京都をつなぐ水運の要地となり、木材などを扱う問屋などが並ぶようになった。江戸時代の嵯峨の石高はほぼ2,400石で推移して公家領・門跡領による相給となっていた。明治以後に変遷を経て、1903年(明治36年)に葛野郡嵯峨村となり、…

中国の王朝(殷・周・秦・漢・隋・唐・宋・元・明・清・中華民国・中華人民共和国)

…求めてきた明に対し、室町幕府将軍が「日本国王」として朝貢貿易をおこなったのが日明貿易です。倭寇と区別するための許可証である勘合を使用したので勘合貿易ともいいます。3代将軍足利義満のとき最も盛んでした。輸入された明銭は日本国内で広く流通しました。 また、豊臣秀吉が企てた朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)では、李氏朝鮮を助けた明の大軍が日本軍と戦いました。 清 :1616~1912 わが国が鎖国をしていた江戸時代、オランダと清のみが長崎の出島で貿易を許されました。 明治になって、18…

西へ向かった紙 751年 タラスの戦い

…への関心が高まる2008紙の生産量(世界)1位 アメリカ/2位 中国/3位 日本 日本 610高句麗から製紙法が伝来806紙屋院(製紙工場)が建設954-974蜻蛉日記に陸奥紙の記載1338奉書紙(越前)が保護を受ける室町時代襖障子・明かり障子・雨傘用紙の需要増1613日本使節団がヨーロッパを訪問、日本の良質な鼻紙に現地の人々が驚く1798紙漉重宝記(和紙製紙技術書)が出版1874有恒社で機械抄き紙(洋紙)の製造を開始1925クラフトパルプを製造1964海外から木材チップ輸入

児島の歴史

…庄八幡宮の三の鳥居は室町の作例として全国的にも珍しい。この頃の石造りの技術力の高さは、他の石仏、石像にもいかんなく発揮されており、熊野道や下津井田の浦の延命地蔵など鎌倉、室町の銘を刻した文化財は、歴史の厚みを感じさせる。林の尊龍院に生まれ育ち、あの『忠義桜』でその名が知られる児島高徳が南朝に活躍したのもこの頃である。藤戸の悲劇を経て、吉備の穴海の浅瀬が、三大河川の運ぶ土砂によりますます広がって内海の様子が大きく変化してくると、主要航路は南に移り、児島は一大転機を迎える。風待ち…

吹田市・神崎・山本

…かと思われる。さらに室町時代後期になると、道路整備が地方領主の手に移り、いわゆる城下町形成の手段に用いられるなどしているため、いわゆる東西短絡の性格から外れることになる場合もあった(岡山城下など)。近世山陽道 詳細は「西国街道」を参照江戸時代には、いわゆる「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても江戸幕府の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたとも言える。街道には宿場が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の宿舎として…

池田城 (摂津国) 池田氏 摂津豊島郡池田

www.google.com sirotabi.com www.google.com www.google.com 池田 知正は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。摂津国豊島郡の国人。池田長正の長男。別名は勝重、重成。通称は久左衛門。一時期、荒木村重の配下となり荒木久左衛門と称されていた。 ウィキペディア 生年月日: 1544年 死亡日: 1603年 両親: 池田長正 子: 養子:三九郎 (光重の子) 時代: 安土桃山時代 - 江戸時代初期 兄弟: 知正、光重 www.…

備後の国 足利将軍

…4/06/30 — 室町幕府最後の将軍足利義昭が、織田信長と対立して、小早川隆景庇護の下、備後の国鞆の浦に下ったのが、天正4(1576)年のことでした。鞆の浦は、足利家にとってゆかりのある土地で、尊氏が新田義貞追討の院宣を光厳 室町幕府最後の将軍足利義昭が、織田信長と対立して、小早川隆景庇護の下、備後の国鞆の浦に下ったのが、天正4(1576)年のことでした。鞆の浦は、足利家にとってゆかりのある土地で、尊氏が新田義貞追討の院宣を光厳上皇より受けた場所でもありました。足利氏にとっ…

歴史を歩く @ 泉秀樹 中国大返し

….jp 中世(鎌倉~室町)の時期、山陽道は、高島(現在の今在家あたり)から旭川を渡って、妙見山の麓に着いたようです。この旭川西岸の渡し場は、「鑵子の釣の渡り(かんすのつるのわたり)」などと呼ばれており、 足利尊氏(観応元年(1350年)の中国遠征)や、 豊臣秀吉(天正10年(1582年)高松城水攻め)が、 この渡しを通ったと伝えられています。 www.google.com www.google.com www.google.com www.google.com https:/…

泉佐野市 日根野 根来寺

www.google.com 日本の古代中世(’17) 第13回 室町時代の社会 室町時代における地方社会の様相を、高野山領紀伊国名手荘や九条家領和泉国日根野荘などの具体的事例について見て、農民の階層性と規模、年貢のあり方、刑罰の様子などについて考える。【キーワード】地主と作人、惣村、一揆、徳政令、二重成 担当講師:本郷 和人(東京大学教授)

古代山陽道駅家想定地(推定地関連情報)

…道方面を経由する変更が行われている。また安芸では峠は避けられない宿命であるものの、路線の変更が繰り返されており府中手前では短絡を緩和し、沿岸部の 海田市を経由する路線(安芸山陽道)へとなった。ただ国を通過する路線が全く変更されたと言う点では、備前と備後の例が最も大きなものではないかと思われる。 さらに室町時代後期になると、道路整備が地方領主の手に移り、いわゆる城下町形成の手段に用いられるなどしているため、いわゆる東西短絡の性格から外れることになる場合もあった(岡山城下など)。

吉備国

…る任務を負ったものと推測される。史料に見える最後は、文武天皇4年(700年)の吉備総領任命記事である。遅くとも大宝律令制定までに廃止された。 この後今日に至るまで、吉備四国は、一体として統治されることはなく、備前と美作、備中、備後の3つに分かれた状態が明治まで続くことになる。この分裂状況の余波は、同じ岡山県となっている岡山都市圏と倉敷都市圏の対立や、室町時代以降備後が安芸と一体化するという形で、現在まで影響している。 www.google.com www.google.com

鎌倉・室町時代(1338-1573年)を合わせて「中世」

…年 – 1336年 室町時代 1336年 – 1573年 南北朝時代 1336年 – 1392年 戦国時代 1467年(1493年)– 1590年 安土桃山時代 1573年 – 1603年 江戸時代 1603年 – 1868年 鎖国 1639年 – 1854年 幕末 1853年 – 1868年 明治時代 1868年 – 1912年 大正時代 1912年 – 1926年 昭和時代 1926年 – 1989年 GHQ/SCAP占領下 1945年 – 1952年 平成時代 1989…

知恵泉「混乱の時代のリーダーとは?足利義満~南北朝合一編~」 室町幕府三代将軍・足利義満。

…、その合一を果たした室町幕府三代将軍・足利義満。その傑出したリーダーの知恵に2週にわたって迫る。今回は南北朝合一の驚きの手腕に迫る 分裂した社会や組織をまとめられるのは、どんなリーダーなのか?日本史上傑出した能力を発揮したのが、南朝と北朝が並び立つ混乱の時代に、その合一を果たした室町幕府三代将軍・足利義満だ。人々は強いリーダーを求めながらも、圧政は望んでいない。卓越したバランス感覚が必要だ。傲慢ともとれる押しの強さ。一転、引くべき時は引く的確な判断力。義満の強くしなやかなリー…

第13回 酸化還元 @ 初歩からの化学(’18)

…て続けられ、おそらく室町時代には国内随一の鉄生産地に成長したとみられています。しかし、その製法は、古代の製鉄がそのまま発展したものでなく、古代末期から中世に進められた技術改良の積み重ねを経て確立されていったものです。なかでも今日まで奥出雲に受け継がれているたたら製鉄は、この地特有の自然条件と先人の試行錯誤によって形づくられた、日本独自の砂鉄製錬技術の完成された姿といえます。中国地方における製鉄遺跡の概要6世紀後半から11世紀頃まで――吉備きび国に集中 中国地方のたたら製鉄遺跡…

兵庫・朝来 竹田城跡 野づら積み

…県史』)。織田信長が室町幕府を滅ぼす。 〃 31575丹波黒井城主荻野直正、竹田・有子山城を急襲し、これを奪取(『吉川家文書』)。 〃 41576 信長が安土城築城を開始。 〃 51577 羽柴秀吉、播磨平定後、小一郎秀長をもって但馬を攻める(『信長公記』) 〃 61578秀吉、再び小一郎秀長を竹田城に入れる(『信長公記』)。 〃 81580秀吉の但馬侵攻(『信長公記』)。太田垣氏による竹田城支配は終焉を迎え、桑山修理太夫重晴が城主となる。所領10,000石(『播翰譜』)。 …

図書館員のコンピュータ基礎講座

…11時南南東微東火 室町時代頃から明治5年まで、民衆の間では、日の出と日の入りを時刻の基準として一日を昼と夜に分け、それぞれを6等分する不定時法(フテイジホウ)が採用されていました。具体的には、日の出を「明け六つ」、日の入りを「暮れ六つ」とし、約2時間を一刻(イットキ)としていましたが、一刻や昼夜の長さは季節と緯度によって変わります。一刻は、「暁九つ」「明け六つ」などと呼んだほか、十二支を当てはめて「子の刻」「丑の刻」などとも呼んでいました。また、さらに細分化して、午前7時頃…

587年 丁未の乱(ていびのらん)

…えみし、みしはせ 渡嶋 - 北海道?)アイヌ人の祖先とオホ ーツク文化人(ニヴフ人か)の戦いか 663年 : 白村江の戦い(はくすきのえ/はくそんこう 新羅 - 錦江河口付近) 672年 : 壬申の乱(じんしん 大和国、伊勢国、尾張国、美濃国、近江国など) 4奈良時代 5平安時代 6鎌倉時代 7建武の新政 8室町時代 8.1南北朝時代 8.2狭義の室町時代 8.3戦国時代 9安土桃山時代 9.1織田信長の天下布武 9.2秀吉の天下統一 9.3秀吉統一後 10江戸時代 11明治

享徳の乱(きょうとくのらん、享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日))

www.google.com 室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱[1][2]。第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に拡大した。享徳の乱は、関東地方における戦国時代のはじまりを告げる大乱となった。 altgolddesu.hatenablog.com altgolddesu.hatenablog.com

日本の大乱 戦国時代の始まり 応仁の乱(1467年 - 1478年 = 11年間)

…)までの約11年間 室町時代の応仁元年に発生し、文明9年までの約11年間にわたって継続した内乱。 室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。 明応2年の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。 www.google.com ja.wikipedia.org www.google.com www.google.com 天正19年(1591) www.googl…

戦国時代 (15世紀末から16世紀)

…氏が開いた武家政権の室町幕府。1467年に起こった「応仁の乱」は、8代将軍・足利義政時代に起こった後継者争いです。 もともとは、義政の子・足利義尚(よしひさ)を推す母親の勢力と、義政の弟・足利義視(よしみ)を推す勢力との戦い、さらに管領(かんれい)家などの跡目争いなどが一緒になったものでした。加えて当事者たちが細川勝元と山名宗全のそれぞれに頼ったため、二大勢力の戦いへと発展します。 この大乱は、1467年から1477年まで約11年間続きました。結果としては9代将軍・足利義尚が…