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吉備国

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歴史[編集]

 
吉備地方の平野(鬼城山から望む)

吉備は古代、畿内出雲国と並んで勢力を持っていたといわれ、巨大古墳文化を有していた。また、優れた製鉄技術があり、それが強国となる原動力であったとされる。『古事記』中巻、孝霊天皇の段などに兵庫県加古川以西が吉備であると捉えられる説話があり、加古川を国境としていた時期があると考えられている。

この地方独特の特殊器台・特殊壺は、綾杉紋や鋸歯紋で飾られ、赤く朱で塗った大きな筒形の土器で、弥生時代後期の後半(2世紀初めから3世紀中頃まで)につくられ、部族ごとの首長埋葬の祭祀に使われるようになり、弥生墳丘墓(楯築弥生墳丘墓)や最古級の前方後円墳箸墓古墳西殿塚古墳)から出土しており、後に埴輪として古墳時代に日本列島各地に広まった。

古墳時代、吉備地方の現在の岡山平野南部は内海となっていた(吉備穴海、もしくは吉備内海と呼ばれる)。4世紀からこの内海の近くに多数の前方後円墳が造られた。『記紀』や神社伝承においても崇神天皇による四道将軍の遠征によって彦五十狭芹彦命稚武彦命兄弟や鴨氏族が吉備に進出したことが記録されている。

5世紀に雄略天皇は吉備下道臣前津屋の乱(463年)と吉備上道臣田狭の乱(463年)の反乱鎮圧を成功させてヤマト王権の優位を決定づけた。さらに雄略の死の直後には、吉備稚媛(田狭の元妻で雄略の妃)と星川稚宮皇子(雄略と稚媛の息子)が反乱を起こしたため清寧天皇はこれを鎮圧し(479年)、またしても吉備の勢力を削減させている。

6世紀半ばからは巨大な石で構成した横穴式石室を持つ円墳が造られた。吉備は弥生時代からのの生産地であり、さらに千引カナクロ遺跡の発見から6世紀後半には生産が開始されたと考えられるに至った。一方、浦間茶臼山古墳金蔵山古墳のように初期の古墳においても大量に鉄製品が出土している事情や、吉備氏入植以前から製鉄氏族が先住していたと見られることから、製鉄の起源を弥生時代にまで遡るものと見る説もある[1][2]

造山古墳作山古墳は築造当時の日本列島で最大級、現存する日本の古墳のうちでも第4位及び9位の規模をもち、吉備地方の繁栄とこの地の豪族の力を示すものである。

これら古墳の前にあたる前方後円墳時代の吉備と、後にあたる7世紀の吉備地方には、複数の豪族が並び立っていたと考えられている。造山古墳・作山古墳を統一的な吉備政権の存在の証とする説と、この時代にも複数の有力豪族の連合政権であったとする説がある。

国造本紀』によれば、吉備地方には吉備氏のもとに大伯氏上道氏三野氏下道氏加夜氏賀陽氏賀夜氏香屋氏)、笠臣氏小田氏があった。吉備の国造の場合、多く(上道・三野・下道・加夜・笠)が臣(オミ)姓を称している。

この中の下道氏と笠氏は、後に朝臣(かばね)を名乗る(吉備朝臣[3]奈良時代に日本をリードした学者・政治家の吉備真備は下道氏である。

分国は、持統天皇3年(689年)の飛鳥浄御原令の発布をもって備前国備中国備後国に分割、それから遅れること二十数年後の和銅6年(713年)に備前国から美作国を分立させた。

吉備国守吉備大宰吉備総領は、日本書紀風土記続日本紀に散見される官職で、吉備国分割の前後に設置されたらしい。職掌、管轄範囲、存続期間は伝わらない。大宰府の前身とおぼしき筑紫大宰とともに、中央から派遣され、管下の複数の国の外交と軍事を統括する任務を負ったものと推測される。史料に見える最後は、文武天皇4年(700年)の吉備総領任命記事である。遅くとも大宝律令制定までに廃止された。

この後今日に至るまで、吉備四国は、一体として統治されることはなく、備前と美作、備中、備後の3つに分かれた状態が明治まで続くことになる。この分裂状況の余波は、同じ岡山県となっている岡山都市圏と倉敷都市圏の対立や、室町時代以降備後が安芸と一体化するという形で、現在まで影響している。 

 

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