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つれづれなるままに日暮らし

古代山陽道駅家想定地(推定地関連情報)

駅家一覧[編集]

以下に駅馬について、分国名駅名設置郡名)・備考駅馬数等)・古代山陽道駅家想定地推定地関連情報)の順に列挙する。

 
高月駅家推定地(岡山県赤磐市

太宰府

 (比喜(比菩))

中世山陽道[編集]

鎌倉時代は、計画的な国家整備道路としての駅路は存在しなくなったものの、陸上の移動交通がまったく廃絶する訳では無く、その後も地域間の連絡路としての機能はある程度保たれることになった。そして駅家に代わるものとして、宿駅と呼ばれる交通の要地にあって、宿泊のための設備や輸送に携わる人馬を有した集落が発達した。これらは江戸時代にかけての宿場町として発展したものが多い。この時期の山陽道は、幕府出先機関である鎮西探題府がある博多と、京都守護(のちに六波羅探題)が置かれた京都を結ぶ交通の要路で、幕府の緊急連絡の際は早馬を使用した[15]

山陽道の交通が注目されたのは2度の蒙古襲来(元寇)のときで、最初の文永の役(1274年)のときに早馬による蒙古襲来の第一報で博多・京都間に約9日を要し、その他の飛脚による通報に16日前後を要している[15]。これは、古代律令時代の飛駅[注釈 1]による通報と比較して格段に遅い通信であった[15]。2度目の弘安の役(1281年)の時には、博多・京都間を6、7日で通報に要していたことから、文永の役から弘安の役までの間に、中世交通史の研究者である新城常三鎌倉幕府が逓送制度に何らかの改善がなされたものと推測しており、道路文化研究者で工学博士の武部健一も、蒙古襲来が山陽道の整備改善に寄与する契機となっていると指摘している[15]

山陽道においては、次第に従来の極端な直線的志向は廃れ、より整備の簡便な自然地形を利用する経路へと路線の変更がなされたようである。すなわち災害からの復旧を含めて、峠の迂回、河川渡河地点の変更、有力集落間の連絡重視などが主な理由となり、路線の付け替えは各所で行われた。沖積平野の出現による海岸線の後退も手伝い、全体としては次第に瀬戸内海の海岸沿いの経路が志向されることになった。

この変遷の概略としては、従前から平地部の連絡が多かった摂津、播磨では古代の路の近辺にその路線を見いだす事ができうる。しかいそれでもまったく同一の場所に整備が続けられることはなく、例えば姫路付近でも南側へ断層面を利用する形での小幅な変更がなされている。さらに備前への連絡は、野磨(上郡町)を過ぎて、坂長(備前市吉永町)→和気→珂磨(赤磐市松木)→高月(赤磐市馬屋)の路線であったものが、備前市片上→備前市香登岡山市一日市→岡山市藤井へと大きく変更され、旭川を渡り備中へと続く。

備中では小田川沿いの平地が最も妥当な選択であったので、基本的にこの路線は踏襲されている。そして現在の国道313号高梁市井原市:高梁へは美作から、あるいは高梁川沿いを遡る形で連絡が可能)も、いわゆる宿駅が整備され街道(備中往来)として利用されていたようである。

しかし備後では、福山市北部(府中~駅家付近)と安芸の三原市北西部(高坂・本郷)の経路から、芦田川に沿う形をとり尾道方面を経由する変更が行われている。また安芸では峠は避けられない宿命であるものの、路線の変更が繰り返されており府中手前では短絡を緩和し、沿岸部の 海田市を経由する路線(安芸山陽道)へとなった。ただ国を通過する路線が全く変更されたと言う点では、備前と備後の例が最も大きなものではないかと思われる。

さらに室町時代後期になると、道路整備が地方領主の手に移り、いわゆる城下町形成の手段に用いられるなどしているため、いわゆる東西短絡の性格から外れることになる場合もあった(岡山城下など)。