altgolddesu’s blog

つれづれなるままに日暮らし

吹田市・神崎・山本


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尼崎地域の二本の街道 内閣文庫蔵「天保国絵図」(部分)
西国街道は中央上端から南西へ、中国街道は右下の大坂市街から北西へ神崎渡しを経て尼崎城下(下部中央の白四角)に南下し、西宮町(中央左)で両街道が合流しています。
村名記載の小判形は、郡ごとに色分けされています(豊島郡:赤、川辺郡:青緑、武庫郡:黄色、西成郡:緑)。 

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中国街道(ちゅうごくかいどう)は、大坂西宮を結ぶ街道。別名は中国路(ちゅうごくじ)、浜街道(はまかいどう)。

大坂城下高麗橋を起点に、難波橋十三の渡し、神崎の渡し、大物浦、尼崎城下などを経由して、西宮本町で西国街道に合流する。 

山陽道

ja.wikipedia.org 古代山陽道 

駅家一覧
以下に駅馬について、分国名/駅名(設置郡名)・備考(駅馬数等)・古代山陽道駅家想定地(推定地関連情報)の順に列挙する。

山城(1駅)
山崎(乙訓郡) 駅馬数20疋
摂津(5駅)
大原(島上郡神内・梶原南地区) 711年設置 摂津国島上郡大原駅 大阪府三島郡島本町桜井一丁目(桜井駅跡)
殖村(島下郡) 711年設置
草野(かやの、豊島郡) 駅馬数13疋 箕面市萱野地区
葦屋(菟原郡) 12疋 深江北町遺跡
須磨(八部郡) 13疋
播磨(9駅、廃駅2駅)
明石(明石郡) 駅馬数30疋[6] 兵庫県明石市
邑美(廃止)
賀古(かこ、賀古郡) 40疋[7] 加古川市野口町野口駅ケ池(うまやがいけ)
佐突(廃止)
草上(飾磨郡) 30疋[8] 姫路市今宿
大市(揖保郡) 20疋[9] 姫路市太市中
布勢(揖保郡) 20疋[10] たつの市揖西町小犬丸
高田(赤穂郡) 20疋[11]
野磨(やま、赤穂郡) 20疋[12] 赤穂郡上郡町落地(おろち)飯坂遺跡
越部(揖保郡) 5疋[13] (美作路 - 播磨国府と美作国府を結ぶ支路)
中川(佐用郡) 5疋[14] (美作路 - 播磨国府と美作国府を結ぶ支路)

高月駅家推定地(岡山県赤磐市
備前(4駅)
坂長(和気郡) 駅馬数20疋 岡山県備前市吉永町
珂磨(磐梨郡) 20疋 (788年に藤野駅を廃止して置かれた)
高月(赤坂郡) 20疋 赤磐市馬屋
津高津高郡) 14疋 岡山市一宮付近
備中(4駅)
津峴(都宇郡) 駅馬数20疋 倉敷市矢部
川邊(下道郡) 20疋 倉敷市真備町川辺
小田(小田郡) 20疋 小田郡矢掛町小田
後月(後月郡) 20疋 井原市七日市町
備後(5駅、『延喜式』では安那、品治、葦田の3駅となっている)
安那(やすな、安那郡) 駅馬数20疋 広島県福山市(旧深安郡神辺町)御領
品治(ほんじ、品治郡) 20疋 福山市駅家町
葦田(看度?、御調郡) 20疋
安芸(13駅)
真良(しんら、沼田郡) 駅馬数20疋 三原市高坂町真良
梨葉(なしわ、沼田郡) 20疋 三原市本郷町
都宇・津宇(つう、沼田郡) 20疋(『倭名類聚抄』に「沼田七郷」として今有・沼田・舩木・安直・真良・梨葉・津宇)
鹿附(かむつき、沼田郡) 20疋
木綿(ゆう、賀茂郡) 20疋 東広島市西条地区
大山(賀茂郡) 20疋 東広島市八本松地区
荒山(安芸郡) 20疋 広島市安芸区中野東地区
安芸(安芸郡) 20疋 安芸郡府中町城ケ丘 下岡田遺跡
伴部(佐伯郡) 20疋 広島市安佐南区伴地区
大町(佐伯郡) 20疋 広島市佐伯区利松地区周辺
種篦(へら、佐伯郡) 20疋 廿日市市下平良地区
濃唹(のお・おおの、佐伯郡) 20疋 廿日市市大野高畑地区(『万葉集』高庭馬家(たかばのうまや)跡)
遠管(おくだ、佐伯郡) 20疋 大竹市
周防(8駅、廃駅1駅)
石国(いわくに、玖珂郡) 駅馬数20疋 山口県岩国市関戸付近
野口(玖珂郡) 20疋 岩国市玖珂町野口
周防(光市小周防、熊毛郡熊毛町三丘・高水・勝間付近の諸説) 20疋
生屋(いくのや、都濃郡) 20疋 (現生野屋)生野郷
平野(都濃郡) 20疋 旧新南陽市西部に平野郷が存在した
大前(おおさき、889年に廃止) 防府市
勝間(かつま、佐波郡) 20疋 防府市勝間
八千(やち、吉敷郡) 20疋 山口市鋳銭司矢地
賀孕(かがほ、吉敷郡) 20疋 山口市嘉川(賀宝とも)山口市賀川
長門(5駅)
阿潭(あたみ、厚狭郡) 駅馬数20疋 宇部市吉見 
厚狭(厚狭郡) 20疋 山陽小野田市
埴生(はぶ、厚狭郡) 20疋 山陽小野田市埴生
宅賀(たか、豊浦郡) 20疋(室賀とも)下関市小月
臨門(りんもん、豊浦郡) 20疋(外国の賓客を接待する役割も兼ねており、日本書紀には穴門館(後に臨海館)と記載あり)下関市前田付近
太宰府

豊前(2駅)
杜崎(もにさい、企救郡) 駅馬数20疋 福岡県北九州市門司区
 (比喜(比菩))

到津(いたむつ、企救郡) 15疋 北九州市小倉北区
筑前(9駅、『延喜式』では8駅となっている)
独見(ひとみ、遠賀郡) 駅馬数15疋 北九州市八幡東区
夜久(やく、遠賀郡) 15疋 北九州市八幡西区上津役
嶋門(遠賀郡) 23疋 遠賀郡遠賀町
津日(宗像郡) 22疋 宗像市(旧宗像郡玄海町
席内(宗像郡) 15疋 古賀市筵内付近(席打とも)
夷守(ひなもり、糟屋郡) 15疋
美野(那珂郡) 15疋
久爾(席田郡) 10疋 福岡市博多区東平尾付近 

中世山陽道 「筑紫大道」も参照
鎌倉時代は、計画的な国家整備道路としての駅路は存在しなくなったものの、陸上の移動交通がまったく廃絶する訳では無く、その後も地域間の連絡路としての機能はある程度保たれることになった。そして駅家に代わるものとして、宿駅と呼ばれる交通の要地にあって、宿泊のための設備や輸送に携わる人馬を有した集落が発達した。これらは江戸時代にかけての宿場町として発展したものが多い。この時期の山陽道は、幕府出先機関である鎮西探題府がある博多と、京都守護(のちに六波羅探題)が置かれた京都を結ぶ交通の要路で、幕府の緊急連絡の際は早馬を使用した[15]。
山陽道の交通が注目されたのは2度の蒙古襲来(元寇)のときで、最初の文永の役(1274年)のときに早馬による蒙古襲来の第一報で博多・京都間に約9日を要し、その他の飛脚による通報に16日前後を要している[15]。これは、古代律令時代の飛駅[注釈 1]による通報と比較して格段に遅い通信であった[15]。2度目の弘安の役(1281年)の時には、博多・京都間を6、7日で通報に要していたことから、文永の役から弘安の役までの間に、中世交通史の研究者である新城常三は鎌倉幕府が逓送制度に何らかの改善がなされたものと推測しており、道路文化研究者で工学博士の武部健一も、蒙古襲来が山陽道の整備改善に寄与する契機となっていると指摘している[15]。
山陽道においては、次第に従来の極端な直線的志向は廃れ、より整備の簡便な自然地形を利用する経路へと路線の変更がなされたようである。すなわち災害からの復旧を含めて、峠の迂回、河川渡河地点の変更、有力集落間の連絡重視などが主な理由となり、路線の付け替えは各所で行われた。沖積平野の出現による海岸線の後退も手伝い、全体としては次第に瀬戸内海の海岸沿いの経路が志向されることになった。
この変遷の概略としては、従前から平地部の連絡が多かった摂津、播磨では古代の路の近辺にその路線を見いだす事ができうる。しかいそれでもまったく同一の場所に整備が続けられることはなく、例えば姫路付近でも南側へ断層面を利用する形での小幅な変更がなされている。さらに備前への連絡は、野磨(上郡町)を過ぎて、坂長(備前市吉永町)→和気→珂磨(赤磐市松木)→高月(赤磐市馬屋)の路線であったものが、備前市片上→備前市香登岡山市一日市→岡山市藤井へと大きく変更され、旭川を渡り備中へと続く。
備中では小田川沿いの平地が最も妥当な選択であったので、基本的にこの路線は踏襲されている。そして現在の国道313号(高梁市井原市:高梁へは美作から、あるいは高梁川沿いを遡る形で連絡が可能)も、いわゆる宿駅が整備され街道(備中往来)として利用されていたようである。
しかし備後では、福山市北部(府中~駅家付近)と安芸の三原市北西部(高坂・本郷)の経路から、芦田川に沿う形をとり尾道方面を経由する変更が行われている。また安芸では峠は避けられない宿命であるものの、路線の変更が繰り返されており府中手前では短絡を緩和し、沿岸部の 海田市を経由する路線(安芸山陽道)へとなった。ただ国を通過する路線が全く変更されたと言う点では、備前と備後の例が最も大きなものではないかと思われる。
さらに室町時代後期になると、道路整備が地方領主の手に移り、いわゆる城下町形成の手段に用いられるなどしているため、いわゆる東西短絡の性格から外れることになる場合もあった(岡山城下など)。
近世山陽道 詳細は「西国街道」を参照
江戸時代には、いわゆる「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても江戸幕府の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたとも言える。街道には宿場が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の宿舎としての本陣、脇本陣、そして武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備された。かつては、一級の幹線道として扱われた山陽道も、五街道と連結する脇街道へと扱いは格下げされた[3]。
西国街道