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つれづれなるままに日暮らし

児島の歴史

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吉備の穴海図

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(縄文時代頃の児島の様子)

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かつて児島は、瀬戸内海に浮かぶ島であった。
その名は、わが国最古の文献として知られる『古事記』にいきなり登場する。
古事記』の国生み神話によれば、大八島に続く九番目の島として、吉備の児島は生まれる。
しかし、児島の住民はさらに遡ること一万数千年の前縄文時代から、この地を生活の舞台として営々と生きてきたのである。
その人たちの残した石の道具や生活の跡は、鷲羽山を中心とする一帯から発見されており、約五千年前に至る縄文時代には、児島沖の六口島などの島々や児島地区内の低地へと広がっている鷲羽山出土の土器類、海岸周辺の各地から出土する貝塚や石包丁などから想像される縄文弥生の生活は漁業や山麓での農業など、採集中心の生活であつたと想像されるが、出土した土器類の中には、塩づくりに使用されていたと考えられる用具が多数発見されている。
古代の児島では、盛んに古墳の造成が行なわれるなど人の動きが活発になり、『古事記』や『日本書紀』に登場する吉備の児島は、大和朝廷において地理的に重要な位置を占める存在となる。
当時の児島は、吉備の穴海と呼ばれる浅い海を北にはさんで、岡山の三大河川すべてから送り出される土砂を受け止め、後の広大な平野を生み出す役目を果たしていた。
瀬戸内海のほぼ中心部分にあって、東西交通の要衝として、また、当時の貴重な物産である塩を税として納める産地として、多くの重要人物が往来している。
『記・紀』の記述に従えば、神武天皇の東征物語に登場する吉備の高島は塩生の高島であり、日本武尊の活躍の話にも吉備の児島は登場する。
また、竜王山には、神功皇后が舟がかりして休まれたと伝えられている。
現在の岡山市郡に置かれたという児島の屯倉は、こうした児島の政治的な地位をも確立し、吉備国を制圧し、大陸との交流と貿易に欠くことのできない大和政権の拠点となった。
大和朝廷の政治的拠点であり、内海の東西交通の要衝となった児島には、政権の要人が多く立ち寄ったであろうことが推測されるが、中でも、『万葉集歌人大伴旅人は太宰の帥として筑紫へ赴任、太宰府を離れるにあたっての贈答歌を残している。
倭道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかな(やまとに帰る道々に吉備の児島を通っていくと、筑紫の地で愛したあの児島という名のことが、思い出されてなつかしい)
※現在のJR児島駅前に、大伴旅人、筑紫娘子児島の歌碑がある。
奈良時代に仏教が広まってくると、通生の般若院や由加の蓮台寺が、名僧行基によって開山されたと伝えられており、その他多くの寺が生まれた。
一方、熊野権現の神輿を奉じた役の小角の弟子、義学たちが児島の南海石榴浜(今の下の町のあたり)に上陸し、熊野道を進んで福岡の庄(今の林)に鎮座されたと伝えられるのも、この頃である。
熊野権現修験道、山伏の基地(現在は五流尊龍院)であるとともに、海運の守護にも関係があったので、当時の塩作りや海運との関係も想像される。
また、福岡の南に位置する福南山山頂には、木華佐久耶比嘩神社があって、この新熊野山の守護神となっているが、延喜式外古社となっており、相当に古い創建である。
平安時代になると、征夷大将軍坂上田村麿呂が鬼征伐のために派遣されたという伝説が『喩伽山縁起』にみられるが、児島の観音聖地に誇り高き武将を登場させずにいられなかった当時の民衆の熱烈な観音信仰が伺われる。
古今和歌集』に歌われた唐琴には、菅原道真に関する伝説があり、今も守られている習慣がある。
太宰府に左遷された傷心の菅原道真は、唐琴の泊りの風景と里人の暖かいもてなしに滞在を続けたが、旅立ちの朝、夜明けを待たずに鶏が朝を告げてしまったために、慌ただしく旅立ったので、以後この集落では、鶏を飼わないというような無邪気なものである。
その時菅原道真は、唐琴を愛でる三首の歌を詠まれたという。中のひとつは、
舟とめて波にたたようことの浦通ふは山の松風のをと
(舟をとめて静かな琴の浦の波にただよっていると、聞こえるのは山の松をそよがせる風の音だけだよ)
このころ『日本後紀』には、児島の塩百姓を保護することに中央政府が努力することを示す記述があり、すでに塩田と塩百姓があったことがわかる。
この日本史史上初めて登場する児島の塩百姓とは、吉備の児島であることは明らかであるが、その場所はどこであろうか。
現在の児島に塩の字をもつ地名は、塩生(しょーなす)である。
今は、水島工業地帯の緑地をはさんだ山麓という趣きを呈しているものの、本庄小学校近くの塩釜神社の西側に美しい砂浜が広がっていたことは記憶に新しい。
付近では、製塩用土器や塩田跡と思われる遺構が出土することをみても、児島塩業発祥の地と考えてよいと思われる。
この頃の製塩がどのような方法で行なわれていたかは、文献、記録が失われているため不明であるが、揚げ浜式、もしくは初期の入浜式に近いものであったようである。
古代の地名には、地域の産業の集積を示す地名がついていることが多いが、塩に関しては鷲羽山沖の釜島についても、同様に塩づくりの歴史がうかがわれる。
この釜島では、東国の平将門の乱に呼応した、承平天慶の乱一方の主役藤原純友が海賊勢力と呼応して追討軍との合戦を交えたが、純友がこの地を中心に活動したのも、製塩と塩の海運と無縁ではない。
古代の貴重品である塩の生産と塩の運送による海運の発達は、児島の地の重要性を増すとともに、この地をめぐっての戦いの場面を迎えることになる。
平氏が全盛をきわめた平清盛の頃、『山家集』で知られる西行法師が児島を訪れたのは未だ島であった児島の北岸であったと思われるが、備前児島に流刑となった『千載集』歌人藤原成親がとどめ置かれたのは下津井田の浦で、『平家物語』に描かれた島の風情は今の鷲羽山のたたずまいを美しく表現している。
中世の児島
一の谷の合戦に破れ屋島に退いた平家は、下津井合戦など反平家活動の中、平行盛を総大将として備前児島に陣を構え、本土に最も近い藤戸で源氏軍と対峙するが、佐々木三郎盛綱の奇襲により大敗した。
拠点を失った平家は、屋島に孤立することとなり、没落の運命を進めてしまうことになる。
戦いに先立つ仲秋の月を行盛は、次のように詠んでいる。
もろともにみし世の人は波の上に面影うかぶ月ぞ悲しき
(いっしょにこの月を見たあの人は既に亡く、瀬戸の海の波間に浮かぶ月を見れば、在りし日の面影が忍ばれて、今見るこの月のなんと悲しいことだろうか)
一方、藤戸での合戦悲話は、謡曲『藤戸』に謡われ、武功により児島に入部し、豪族となった盛綱への怨憎と悲しみを語っている。
源平後の児島の人口は、急増する。
しかし、当時の生活は依然として半農半漁、生き物を採取しての生活が主流であったと考えられる。
鎌倉に入って民衆の間で仏教が盛んになったことと、殺生することによって生きることへの恐れは無関係ではない。
平氏や木曾源氏の落人伝説も残っている。
鎌倉時代には中央との関係も深まり、多くの社寺の建設が進んだ。
現在も残っている社寺も多いが、建物がなくなった社寺の跡などにも、色々な石作り建造物は現存している。
全国に3か所ある後鳥羽上皇墓所のひとつが、後鳥羽院供養宝塔として、児島林にある。
承久の乱に敗れた院が隠岐に崩ぜられた時、林の熊野権現には、二人の皇子がおられた。
当時、隠岐御番鍛冶であった備前福岡の刀工のひとりが、御遺骨を持ち帰ったのではないかと考えられている。
この時期を境に熊野から新熊野へと、修験者集団が移動したことは、院を頂点とする公家勢力と武家集団との勢力争いに決着をつけた事件の真相に触れる一助となる。
新古今和歌集』撰の院宣を下された年に出生し、承久の乱後、児島に配流になった第六皇子冷泉宮頼仁親王の歌碑は五流尊龍院の庭内にある。
この里にわれいくとせかすごしてむ乳木の煙朝夕にして(護摩壇の前に座り、朝夕、護摩を焚いてお勤めをする毎日を過ごしながら思い返せば、この里に流されてはや、いく年が過ぎ去ったのだろうか)
下の町田和の王子権現小社の一遇にニメートルあまりの花崗岩製の宝塔がある。
かっての総願寺跡であることを示す碑文には、建仁三年(1203)の銘文があり、鎌倉初期の貴重な資料となっている。
また応永年間の刻銘のある通生本庄八幡宮の三の鳥居は室町の作例として全国的にも珍しい。
この頃の石造りの技術力の高さは、他の石仏、石像にもいかんなく発揮されており、熊野道や下津井田の浦の延命地蔵など鎌倉、室町の銘を刻した文化財は、歴史の厚みを感じさせる。
林の尊龍院に生まれ育ち、あの『忠義桜』でその名が知られる児島高徳南朝に活躍したのもこの頃である。
藤戸の悲劇を経て、吉備の穴海の浅瀬が、三大河川の運ぶ土砂によりますます広がって内海の様子が大きく変化してくると、主要航路は南に移り、児島は一大転機を迎える。
風待ち、潮待ちの港として下津井が勢いを増してくる。
建部の中興の挫折に乗じて室町幕府を開いた足利尊氏が、東征の途上、吉備の穴海を避けて下津井吹上に仮泊し、吹上観音寺に陣を敷いたのも北航路の終焉が近いことを示していた。
近世の児島
戦国時代も秀吉の天下統一によって終わりを告げようとするころ、相次ぐ干拓と新田開発により、倉敷周辺の開発が進み、1618年頃ついに児島の北西部は一部で本土と連なった。
以後営々と続く干拓と新田開発の歴史は、今やかっての瀬戸内海に浮かぶ児島の面影を失わせるほどの広大な平野を児島の北岸に生み出すとともに、児島の歴史に一大転換期を迎えることになる。
江戸幕府が開かれ、赤穂城主でもあった池田長政が下津井城主として赴任すると、当時先進地域とされていた赤穂の製塩技術が導入され、阿津を中心に児島の南岸を塩田化する動きが盛んになる。
下津井の城は、間もなく廃城となるが、阿津の塩田は、児島の一大産業として大発展する。
熊野に勢力を振るっていた堀内氏の子孫が富田屋となって、遠浅の浜への塩田新田の開発を進め、八間巾の入浜式塩田を確立した。
居宅を洲の脇に構えたために後に洲脇氏と呼ばれたという富田屋は、数代にわたって塩田開発を進め、製品である塩の貿易を行なう塩積みの船問屋として栄えた。阿津の港は、千石を上回る巨大な帆船群によって埋まり、大繁盛するとともに、海上交通が大いに発展した。鎖国当時のことで、正確な資料は不明であるが、富田屋の持船は、江戸大阪は勿論のこと、朝鮮、清、シャム近海まで進出していたと言われている。18世紀後半になって、相次ぐ海難によって家勢が衰えると、瀬戸内海運の拠点としての地位は下津井の港へと移った。
下津井港は、風待ち、潮待ちの良港として、肥後の細川など参勤交代の大名や、江戸参府途上のオランダ商館長、朝鮮通信史などが立ち寄った。北前船の来航は、池田家の南の拠点としての地位を高めるとともに、諸物資の交易による海運業が発達した。北前船の運ぶにしんかすは、米作りへの中間作物としての塩に強い綿を栽培するための肥料に使われた。この綿の栽培が定着することにより、繊維産業が大々的にデビューすることになる。海からの産物である魚、塩とその海上運送を中心とした産業に加えて基幹産業となった綿織物が出現することにより、男は塩田で働き、女は織物生産に従事するという生活のパターンが定着してきた。漁業、塩業、機業のいわゆる『児島三白』という言葉で代表される児島の産業にかけた庶民の生活がうかがわれる。
喩伽山蓮台寺中興の祖といわれる増吽によって復興した喩伽山は、しばらく信仰の霊地として栄えたが、戦国時代に再び衰え、江戸中期に至ってようやく発展の波に乗る。
岡山藩主が篤く信奉するようになると、山中に軒を並べる繁華街となるほどの大繁盛を迎えた文化文政から天保のころ(19世紀前半)が、最も繁盛した時期であるが、中でも讃岐の金毘羅大権現との結合による両参りの旅は、庶民を旅へとかりたてた。
それは、信仰と娯楽を兼ねた旅であり、上方、江戸をはじめおびただしい数の参詣者を集め、たくさんの玉垣や石鳥居に寄進名を残した。五穀豊饒、海上安全の神様である金毘羅さんに対し、商売繁盛の神様である喩伽大権現を配し、両方を参るとすべてのおかげをもらえるとして、片参りを忌む気風を生むなど、当時の旅行趣味を巧みに利用した商売上手は観光産業の成功のみならず、新しい産業を生むことになる。
由加と琴平を結ぶ参詣コースとして由加山に近い下村港と田の口港には、金毘羅参詣を目当てとした船宿や渡海屋が繁盛し、名物としての餅や酒などの食品、小倉織りや真田紐などの土産品作りが発達した。
現金収入を得ることのできる生産物として繊維産業が登場すると、池田家は主要な財源として綿、織物の輸出と管理に乗り出し、下津井に綿会所、田の口に小倉寄せ場を設置するなど、保護振興に勤め、大阪方面に取引が拡大した。
今も下村港の堀江といわれていた場所には、南にむかっては金毘羅大権現、北にむかっては喩伽大権現と書かれた扁額が掛けられた両神鳥居が、田の口港には、大鳥居と呵吽の形相の唐獅子が向かいあって、往時を忍ばせる。
田の口港から約一里(およそ4キロ)の山道の両側には、茶屋や土産物屋が並び、風待ち、潮待ちのための宿や、芸妓屋、料亭なども栄え、全国の旅人がひしめきあった。
由加は、児島の分水嶺でもあったため、四方からの参道もひろがり、池田家が篤い信仰を捧げたことで、藩士の遊楽も可能な現地の状況は、圧政下の庶民に自由な天地を提供した。江戸本所塩原太助や一族の寄進した玉垣をはじめ、今も残る多くの献納品、広重の残した由加や田の口の絵姿、寺宝に残る円山応挙の名画など、参道周辺や由加の門前に遊楽した風流人による文化的な発展も見ることになった。
由加の参道が由加山を中心として四方に広がったこのころ、児島を巡るもうひとつの道が、できあがった。柳田町吉塔寺の住職、円明上人らによって、児島八十八か所が設置されたのである。児島半島を隈無く巡るお大師さま信仰の道は現在も四国八十八か所にかわる地域の巡礼として、人々に愛されている。しかし、かの吉備の児島の中だけでこれだけの寺院やお堂が今も健在であり、月例のお参りが行なわれていることは歴史と文化か活きづいていることの証である。ちなみに、我が児島地区には引網の十九番大師堂から宇野津の三十七番観音堂までの他、曽原の一等寺、瑜伽山蓮台寺など二十六か所あまりがある。
富田屋の衰退は、塩田経営において生産過程に力を注ぐことを怠り、流通に深入りしすぎたことが原因と言われているが、実際18世紀中には、赤崎村六町歩余、味野村五町歩余の塩田面積はあまり増加していない。児島における大規模新浜の築造は、19世紀に入って野崎武左衛門の手によって行なわれた。武左衛門は、味野村の中産の農家の出身であるが、成人すると夫婦で足袋縫製業を始め精励、成功をおさめた。およそ20年を費やした資金をもって新浜開発に踏みきり、文政十二年(1829)約十町歩の味野浜を完成し翌年には赤崎浜約五町歩を加えた。味野の野と、赤崎の崎をとって野崎氏と改名、次々と新浜の開発に成功した。児島半島南岸にそって生涯約百六十町歩の塩田を開発するとともに福田新田の干拓などに参画し、弘化年間には名字帯刀を許されるなど、百町歩を超える巨大地主となった。
このように、塩業、機業が児島の地場産業としての隆盛を迎えた背景には、金毘羅との交流による四国からの人口の流入の他、次男三男の労働力を新産業へ吸収するという役割を期待されたという事情もある。
参考、参照した資料
『児島風土記』倉敷の自然をまもる会
『児島産業史の研究』多和和彦
『児島機業と児島商人』角田直一
『児島の日本一物語』角田直一
『日本の古代遺跡23岡山』間壁忠彦、間壁蔑子
『暮らしの瀬戸内海』角田直一
「路地と港街」角田直一
『しわく騒動記』角田直一
『歴史のまち下津井』大谷壽文
『日本史辞典』角川書店

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