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つれづれなるままに日暮らし

第12回 (室町時代の政治史) @ 日本の古代中世 ('17) 延元元年(1336年)5月、九州から東上した足利尊氏が湊川の戦いで楠木正成を破る。 - 天正16年(1588年)1月13日、義昭は関白・豊臣秀吉

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日本の古代と中世の歴史を、基本となる史料や史跡のあり方や国際的な交流との関わりから探る。時代としては、日本列島のはじまりから16世紀までの、国家が形成・整備され、やがてその仕組みが衰退し、地域社会が表面化するなか、再び統一政権が登場するまでを扱う。とくに列島の古代中世史像は、発掘調査の成果や様々な新史料の発見によって変貌しつつあり、活発に越境した国際関係や各地域の歴史の実像が掘り起こされて、多元的に見直されている。こうした最新の動向をふまえて、東アジアの国際関係のもと、史料や史跡に焦点をあてながら、日本列島のあたらしい古代中世史をたどる。

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成立時期[編集]

初代将軍足利尊氏

延元元年(1336年)5月、九州から東上した足利尊氏湊川の戦い楠木正成を破る。後醍醐天皇比叡山に退去したが、正成とともに「三木一草」と称された後醍醐の武将ら(結城親光名和長年千種忠顕)もこの前後に相次いで戦死したため、苦境に立たされることとなった。

翌月、入京した尊氏は光厳上皇治天の君に擁立し、8月には光厳の弟豊仁親王光明天皇)が即位する。和睦の成立によって10月に帰洛した後醍醐は幽閉され、11月2日に光明へ神器が譲与される。

同月7日、是円(中原章賢)・真恵兄弟らが起草した『建武式目』の制定によって新たな武家政権の施政方針が示されたが、室町幕府の実質的な成立はこの時期とされる。北朝から権大納言に任ぜられた尊氏は「鎌倉大納言」と称され、鎌倉将軍(鎌倉殿)を継承する存在と見なされた。

翌月21日、後醍醐が大和国吉野に脱出し、南北両朝の並立状態が始まる。

延元2年(北朝建武4年、1337年)8月、鎮守府将軍として東北にあった南朝方の北畠顕家が西上の途に就き、明くる延元3年(北朝建武5年、1338年)1月には青野原の戦い幕府軍を撃破したものの、その後の連戦の末ついに5月に戦死し(石津の戦い)。また、事実上の南朝方総大将であった新田義貞も、閏7月の藤島の戦いで敗死した。

こうして、主将と奥羽に勢力を築いた有力武将の2人を失った南朝方の劣勢は覆いようもなく、北朝・幕府方優位の趨勢の下、建武5年(1338年)8月11日に尊氏は征夷大将軍に任ぜられた。

滅亡[編集]

滅亡は、元亀4年(1573年)7月に15代将軍・義昭織田信長によって京都から追放された時点とするのが一般的である。また、信長以前には、天文22年(1553年)8月に13代将軍義輝三好長慶に敗れ近江国朽木谷に逃れてから永禄元年(1558年)11月に和議を結び入京するまで、長慶が将軍を擁立しない独自の政権を京畿に打ち立てていた例もある。

もっとも、義昭はその後も将軍を解官されてはおらず、信長の勢力圏外においては依然将軍としての権威を保持していた。義昭追放後も彼を支援する毛利輝元毛利氏との交渉で、信長もその復帰を了承しており、幕府が存続(復活)する可能性もあったが、義昭の信長に対する人質要求により実現せず、結局義昭が政権に返り咲くことはなく、結果的に元亀4年の追放時点に遡及して(中央政権としての)幕府の滅亡が確定したともいえる。

藤田達生は、京都追放後の義昭による政権を「鞆幕府」として規定することを提唱した。これによれば、幕府の滅亡は1573年ではなく、より遅い時期となることとなる[1]が、既に幕臣の多くが義昭の元を去っており、幕府の体をなしているとは言いがたく、「鞆幕府」説が研究者の支持を得ているものではないことに留意する必要がある。

天正16年(1588年1月13日、義昭は関白豊臣秀吉とともに参内して、その地位を朝廷に返上するまで征夷大将軍であったと『公卿補任』は記録する。義昭は将軍職辞任後、朝廷から准三宮の待遇を得、秀吉からも貴人として最後まで遇された。現任将軍の存在という面を重視すれば、この天正16年1月を幕府終期と見ることもできる。