目次
- 先史時代(紀元前1600年頃まで)
- 夏(紀元前2070年~1600年)
- 周(紀元前1046年~256年)
- 商(紀元前1600年~1046年)
- 秦漢時期(紀元前221年~220年)
- 秦(紀元前221年~207)
- 漢(紀元前206年~220年)
- 三国時代(220年~581年)
- 隋(581年~618年)
- 唐(618年~907年)
- 宋(960年~1297年)
- 元(1271年~1368年)
- 明(1368年~1644年)
- 清(1644年~1912年)
- 中華民国時代(1912年~1949年)
- 近代中国(1949年から現在)
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先史時代(紀元前1600年頃まで)
先史時代は旧石器時代、新石器時代、青銅器時代に分けられます。信用性のある歴史記録がないため、この時代に関することは、ほとんどが遺跡からの発掘されたものなどからの関連性に基づいています。もしくは中国神話に由来しています。
夏(紀元前2070年~1600年)
夏王朝は古代中国で最初の王朝でした。この時代には東夷人が出現し、「史記」や「竹書紀年」の記載によると夏王朝は夏禹によって始まり十四代にわたる17人の王により500年間続きました。しかし一部の間では夏王朝の存在について未だ議論されていますが現代の中国史・考古学界では夏王朝は実在したものと見なされています。
中国古代(紀元1600年~221年)
古代青銅器商王朝の時代に中国文明は黄河流域で始まりました。 そこから他の地域に徐々に広がり、青銅器時代の文化がピークに達しました。その後、周王朝の封建時代に領土と人口が拡大し、儒教や道教などの伝統的な中国哲学が生まれました。
そしてついには200年以上の後に古代中国はいくつかの国に分裂し、その後の統一は中国帝国の時代の始まりを示しています。
商(紀元前1600年~1046年)
商王朝は歴史的な記録の残る最初の王朝です。 紀元前1600年まで遡った多くの青銅器やがこれらの時代の考古学的な記録の裏付けになっています。
中国最古の文字である甲骨文字とは動物の骨に刻まれた象形文字のことです。商王朝の首都は陰(安陽)で、その領土は黄河と長江下流の間にあったとされています。
周(紀元前1046年~256年)
周王朝(紀元前1046-256年)は商王朝に続く中国史第3番目の王朝です。
この時代は西周王朝(紀元前1045-771年)、春秋期(紀元前770-476年)、戦国時代(紀元前475-221年)の3つに分かれています。 それは部族社会から封建社会への変化の現れです。
この時代には主な哲学や宗教が出現し、特に儒教や道教などは後の中国の信仰の礎となりました。
中国封建帝国時代(紀元前221年~1912年)
最初に確立された封建帝国すなわち紀元前221年につくられた秦王朝から1912年に清王朝が滅亡するまでの、この期間は中国帝国の時代と呼ばれています。
帝国時代は中国の歴史の中でも主要な部分です。王朝が周期的に繁栄と衰退を繰り返すことで安泰な時代には文明は繁栄し、反乱と征服が起こることで改革が進んでいきました。
秦漢時期(紀元前221年~220年)
秦漢王朝は中国の歴史における一番初めの大きな統一の時代でした。この時代に次世代2000年の基本的な政治システムの基礎となる機関が築かれました。
秦王朝時代は短い期間でありましたが真の統一を確立させました。しかし歴史的経験不足により二代目の秦王朝はなくなってしまい、その後、幾度かの分裂の後に漢王朝が続き、そこでは秦王朝時代に築かれたものが継続されていたため「漢承秦制」と呼ばれています。
秦(紀元前221年~207)
最初の皇帝である秦の始皇帝は中国で初めて皇帝の称号を名乗った人物です。始皇帝と国は他の国と戦い征服していくことによって中国を統一しました。
始皇帝は王位に就いた後、法制度を確立し、国の権力を集中させました。 彼は重さと測定単位そして書記体系を統一しました。
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秦朝は中国で初めての最も期間の短い王朝でした。万里の長城や兵馬俑などの素晴らしい建築物で知られています。
秦朝後期には農民のリーダーである劉邦が秦政権を倒し新たに漢朝をたてました。
漢(紀元前206年~西暦220年)
漢王朝は中国と中央アジアおよびヨーロッパを結ぶシルクロード貿易を行うことで知られる最も長い王朝です。
漢王朝では功徳による官僚制度が確立され国家は国家統治のために儒教を取り入れました。 その他にも農業や手工芸品、商業が急速に発展しました。
武帝の統治時代(紀元前140〜西暦87年)に漢政権は最も繁栄しました。漢族の政権下では民族国家の団結がより強くなりました。
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漢王朝は中国の歴史上最も強力で重要な王朝の1つです。そしてその後の王朝にも大きな影響を及ぼしています。
三国時代(220年~581年)
漢王朝衰退後、三国時代(220-265)になりました。その後、晋王朝が登場しましたがこの統一の期間は僅かでした。
しかし権力を抑えきれず再び中国が分裂し、南北王朝(420-589)に入ります。この混乱の中、多くの宗教が出現しましたが、そのなかでも仏教に対する南北朝の支持は強く、この時代に思想が広まりました。
400年にわたる混乱の後、隋王朝はついに581年に再び中国を統一しました。
中世期(581年~1368年)
中世期にはいくつかの政権を繰り返すことで着実に発展していきました。
中国は4つの国から最も文化的に高度で技術的な国へと変化しました。 最終的にその国はヨーロッパに広がった強力なモンゴル帝国によって侵略されてしまいました。
隋(581年~618年)
581年、楊建は北部で王位を奪い隋の皇帝として中国の他の地域を統一しました。これは短く、し烈な王朝で、大運河と万里の長城の再建など偉大な権利と業績を残しました。
隋文帝の最も重要な成果の1つは帝国試験制度の確立と官僚としての才能のある人々の選出でした。
この王朝のほとんどの政府機関は後の王朝でも採用されています。その後の唐王朝と共に偉大な時代と考えられています。
唐(618年~907年)
隋王朝が勢いを増した後、再び力をもった唐王朝が国を統一しました。 唐王朝は、隋朝の科挙試験制度を継続し、それを発展させていきました。3世紀にわたって統治し、詩や絵画、唐三彩、木版画の黄金時代でもありました。
唐代中期に大きな打撃をもたらした巨大な反乱-安史の乱があり、いくつかの地域はこれによって毎年多くの財政を与えるための機会を得ました。この状況は唐時代の終わりまで続きました。
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唐王朝の後、五代十国(907-960)の時代になりました。960年,趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて“宋”を建国しました。
宋(960年~1297年)
中国古代の「四大発明」のひとつ-印刷宋王朝は中原と中国南部を統一しました。しかし北宋時代(960-1127)の支配範囲は唐王朝の頃よりも小さかった。
北部の河北省は契丹人によってつくられ後に占領され(907〜1125)支配されていました。 北西部では支配的な西夏王朝(1038-1227)が現在の甘粛省と西北部の陝西省を支配していました。
12世紀の前半までに女真族(現代の満州人の祖先)が南部に侵入し、北宋は滅亡しました。康王趙は南京で即位し、南宋をつくりました。女真族は黄河流域に金王朝をつくりました。
宋王朝は中国における商品経済、文化、教育、そして科学的革新のために繁栄した時代でした。宋の時代には手工業と国内外の貿易が盛んになりました。多くの商人や他国からの旅人がここへやってきました。
中国古代の「四大発明」(紙、印刷、コンパス、および火薬)は宋王朝でさらに発展しました。
元(1271年~1368年)
1206年、チンギス・ハーンはモンゴルのすべての部族を統一し、大モンゴルをつくりました。
12世紀の終わりまでにモンゴルは統治されていきました。チンギス・ハーンと彼の子孫が領土を拡大し、モンゴル帝国は東ヨーロッパに拡大しました。
1271年、フビライ・ハーンが皇帝となり正式に元朝となり首都(北京)を立ち上げました。
元朝時代には貿易、技術、外交関係は発展し続けました。元王朝は商取引を推進し、商品経済を繁栄させ商品交換に適応するために世界最古の完全な紙幣流通システムを確立し、中国で最初に紙幣を流通通貨として使用した王朝となりました。
最後の王朝(1368年~1912年)
明清時代には科挙試験制度(王室/富裕層、学者階級、労働者階級、奴隷階級)が確立し、その制度に基づいた社会構造になっていきました。 しかし植民地化や工業化がすすむにつれその制度はますます社会に合わなくなっていきました。
明(1368年~1644年)
漢民族が率いる一連の反乱運動と自然災害ののち、1368年に朱元章により明王朝が設立されました。
明朝初期、明政府は中央集権化を強化し、経済を発展させるための一連の措置を取り入れました。軍事防衛力を強化するため永楽帝は首都を北京に築き、移転させました。 北の国境を統合するために北に万里の長城を建設しました。永楽帝は国際貿易をとても支持しており、海外との関係をさらに強化するために政府は鄭和を外国へ7回派遣しました。
これは繁栄の時代ですが、商品経済の発展により長江の南のいくつかの場所に資本主義の芽が現れました。 明代後期には封建制度は衰退し、社会的の問題はますます深刻になっていったけれど結局は農民の蜂起と満州族の攻撃が頻繁に起こったため明朝は滅亡してしまいました
清(1644年~1912年)
明朝末期、中国東北部の満州人の勢力はますます増加しました。満州族は3世代にわたり中国を攻撃し、最終的に清王朝を樹立しました。これは歴史上最後の帝国です。
清王朝の最も有名な2人の皇帝は康熙皇帝(1661-1772)と乾隆帝(1735-96)です。彼らによる統一は「繁栄の黄金時代」でした。
しかし清末のアヘン戦争により最後の中国の王朝は半植民地の半帝国になってしまいました。
中華民国時代(1912年~1949年)
1911年、孫文による辛亥革命により清の支配は終わり中華民国が設立されました。 しかしこの時点では中国はまだ建国されておらず数十年にわたって内戦が続きました。
近代中国(1949年から現在)
1949年に中華人民共和国が建国されて以来、中国は共産主義の安定した時代に入り、1978年の改革開放政策は中国の経済成長を大きく促進しました。
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中国を統治した王朝、政府を概観すると次のようにまとめられます。
夏 :最古の王朝だとされています。
殷 :殷墟(いんきょ)、青銅器、甲骨文字を残しました。
周 :前1100頃~前256 封建制度で中国北部を統治しました。
・春秋時代 前770~前403 周が衰え、諸侯が争った時代です。
・戦国時代 前403~前221 七国(韓・魏・趙・斉・秦・楚・燕)が争った時代です。秦 :前221~前206 始皇帝が中国を統一しました。貨幣や文字を統一し、万里の長城を築きました。
漢(前漢) :前202~後8 劉邦が項羽を倒して建国しました。武帝のときに儒教を国教としました。
新 :後8~23 王莽が前漢を乗っ取った王朝です。
・三国時代 :220~280 曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀が争った時代です。
・・魏 :220~265 蜀を滅ぼしますが、司馬炎に倒されます。
・・蜀 :221~263 魏に滅ぼされます。
・・呉 :222~280 司馬炎の晋に滅ぼされます。晋(西晋) :265~316 魏の重臣、司馬炎が建てた国です。
・東晋 :317~420 晋の滅亡後、皇族が再興した国です。
・五胡十六国 :304~439 異民族が華北に侵入し、興亡をくりかえしました。
・南北朝時代 :439~589 華北の王朝と東晋の後継王朝が南北に分かれて統治した時代です。隋 :581~619 楊堅が再び中国を統一しました。律令制度を始めました。
唐 :618~907 李淵・李世民親子が建てた王朝です。均田制や租庸調を採用しました。
・五代十国 :907~960 唐が滅亡した後、宋が再統一するまでの間、華北で五王朝、地方で十の国が興亡しました。
宋(北宋) :960~1127 趙匡胤が再び統一王朝を建てました。1127年、南に逃れて南宋となります。
・南宋 :1127~1279 元に滅ぼされます。
・遼 :916~1125 契丹族の耶律阿保機が建国、北宋を圧迫し、中国北部を支配しました。
・金 :1115~1234 北宋を滅ぼして中国北部を支配した王朝です。元 :1271~1368 モンゴル帝国のフビライが南宋を倒して中国全土を支配しました。
明 :1368~1644 漢民族の朱元璋が元を滅ぼし、建国しました。
清 :1616~1912 満州の女真族のヌルハチが建国、明の滅亡後、中国を統治しました。
中華民国 :1912~1949 辛亥革命で清を倒して成立しました。中国共産党によって台湾に追われました。
中華人民共和国 :1949~ 中国共産党が、1949年に国民党との内戦に勝利した後、現代まで中国を統治しています。
国名の暗記方法
私は「語呂合わせ」よりは「お経のように唱える」ほうが覚えやすいし手っとり早いと思っているので、次のように暗記しました。
殷・周・秦・漢・隋・唐・宋、いん・しゅう・しん・かん・ずい・とう・そう(このあたりで息が切れます)
元・明・清、げん・みん・しん(ここで一呼吸)
中華民国・中華人民共和国、ちゅうかみんこく・ちゅうかじんみんきょうわこく
童謡『うさぎとかめ』の歌詞に合わせて覚える方法もあるようです。
いん・しゅう・しん・かん・さんごく・しん…もしもしかめよかめさんよ
なんぼくちょう・ずい・とう・ごだい…せかいのなかでおまえほど
そう・げん・みん・しん・ちゅうかみんこく…あゆみののろいものはない
ちゅうかじんみんきょうわこく…どうしてそんなにのろいのか三国時代、南北朝、五代が入っているので便利といえば便利です。
中国の王朝と日本との関係
小学生・中学生の場合、日本の歴史との関連で中国の王朝名を覚えると知識の整理ができて得点力がアップします。
漢(前漢) :前202~後8
『漢書地理志』に、わが国について「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる」と書かれています。
漢(後漢) :25~220
『後漢書東夷伝』に、倭の奴の国王の使いが57年に後漢に朝貢し、光武帝より金印を授けられたという記述があります。
1784年に福岡県の志賀島から出土した金印(「漢委奴国王」と刻まれています)がその金印だとされています。三国時代 :220~280
『魏志倭人伝(『三国志』魏書東夷伝倭人条)』に、倭に邪馬台国を中心とした国家連合が存在すること、邪馬台国の女王卑弥呼が占いによって統治していること、倭人の様子や風俗などが書かれています。
隋 :581~619
『日本書紀』に、大和朝廷が推古天皇の15年に小野妹子を、後に犬上御田鍬を隋に使節として派遣したことが記述されています(聖徳太子による遣隋使)。
『隋書』によると、遣隋使の派遣は3回あったようです。唐 :618~907
遣唐使は、630年の犬上御田鍬から始まり、894年に菅原道真の意見によって廃止されるまで16回唐を訪れ、唐の文化をわが国に紹介しました。
また、663年、天智天皇のとき、百済をほろぼした唐と新羅の連合軍と、百済の王族を助けた日本とが朝鮮の白村江で戦い、日本軍は惨敗しました。
宋(北宋) :960~1127
・南宋 :1127~1279
平安時代の中期から鎌倉時代の中期にかけて(10~13世紀)、宋との交易が盛んでした。
特に平清盛は大輪田泊(現在の神戸港)を改修し、宋と活発に貿易を行いました(日宋貿易)。
宋銭が大量に輸入され、国内で流通しました。元 :1271~1368
元への服属を鎌倉幕府が拒否したことから、元と高麗の連合軍が二度にわたってわが国に攻め込みました(元寇)。
1274年の襲来を文永の役、1281年の攻撃を弘安の役といいます。
8代執権の北条時宗を中心に、九州の御家人の奮闘もあって、元軍は撃退されました。明 :1368~1644
倭寇の取締りを求めてきた明に対し、室町幕府将軍が「日本国王」として朝貢貿易をおこなったのが日明貿易です。倭寇と区別するための許可証である勘合を使用したので勘合貿易ともいいます。
3代将軍足利義満のとき最も盛んでした。
輸入された明銭は日本国内で広く流通しました。また、豊臣秀吉が企てた朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)では、李氏朝鮮を助けた明の大軍が日本軍と戦いました。
清 :1616~1912
わが国が鎖国をしていた江戸時代、オランダと清のみが長崎の出島で貿易を許されました。
明治になって、1894年、朝鮮で起こった甲午農民戦争に出兵した日本と清が、朝鮮の支配権をめぐって戦ったのが日清戦争です。
日本が勝利し、1895年の下関条約で、日本は清から台湾・遼東半島を奪い(遼東半島は後に三国干渉で返還)、巨額の賠償金を獲得しました。中華民国 :1912~1949
第一次大戦中の1915年、日本は中華民国に対し、旧ドイツ権益の継承など21か条の要求をつきつけ受諾させました。中国では激しい反日運動が起こりました。
1931年、奉天(現在の瀋陽)郊外での鉄道爆破事件(柳条湖事件)をきっかけに日本軍は中国東北部へ侵攻し(満州事変)、1932年、満州国を独立させて実質上わが国の属国としました。
北京郊外で起きた盧溝橋事件をきっかけに、1937年~1945年、日本と中国が戦った戦争が日中戦争です。
満州を支配したわが国はさらに華北への侵略を企てました。中国国内で内戦を続けていた国民政府(蒋介石)と共産党(毛沢東)は休戦し、わが国と戦いました。
戦争は長期化し、太平洋戦争に突入したわが国は、1945年、ポツダム宣言を受諾して降伏しました。中華人民共和国 :1949~
1972年、田中角栄首相が中国を訪問し、中国との間で日中共同声明を調印しました。これによって、日本と中国の正式な国交が回復しました。
日本は中華人民共和国政府が中国唯一の合法政権であることを認め、台湾との外交関係を絶ちました。中国は戦争賠償請求権を放棄しました。1978年、福田赳夫内閣のとき、日本と中国との平和友好関係を強固にし発展させることを目的とする、日中平和友好条約が調印されました。
日中両国関係発展の指針、覇権反対の表明、経済・文化関係の発展と国民交流の促進などを規定しています。 -