中世(鎌倉~室町)の時期、山陽道は、高島(現在の今在家あたり)から旭川を渡って、妙見山の麓に着いたようです。
この旭川西岸の渡し場は、「鑵子の釣の渡り(かんすのつるのわたり)」などと呼ばれており、
足利尊氏(観応元年(1350年)の中国遠征)や、
この渡しを通ったと伝えられています。
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地形がわん曲して、ちょうど鑵子(かんす)のつるのようになっていたことから「釣りの渡り」(温故秘録)、「鑵子の釣の渡」(和気絹)、「つるの渡り」(備前名所記)などといわれていた。