紀元前[編集]
朝鮮史の始期から、中朝間には深い関係があった。70万年前、朝鮮半島・満州地域に人が住み始める[1]。はじめて朝鮮に統一的な勢力を形成したのは、神を信じる部族とクマを崇敬する部族の二つの部族だったという。そして両者が連合して檀君王倹を戴き、檀君朝鮮を建国したという[2]。他方、これは13世紀末に一然が編修した『三国遺事』に初めて現れる神話に過ぎないとの主張もある[要出典]。
隣国中国の強大な王朝との関係性から、この檀君朝鮮建国年の紀元前2333年以来日清戦争の1895年までの4228年間、朝鮮は中国に支配され続けていたとする記事もある。例えば、スペインの有力紙『エル・ムンド』は、「朝鮮は4228年間にわたって中国の植民地だった」「朝鮮半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。中国に1895年まで属していたが、1910年の日韓併合までの15年間にわたって独立を味わったりもした」と報道したことがある[3]。
周の武王が箕子を朝鮮侯に封じ、箕子が殷の遺民を率いて東方へ赴き建国したのが箕子朝鮮である。燕の将軍だった衛満が、衛氏朝鮮を建てるが、漢に滅ぼされ漢四郡が置かれる。高句麗が興るが、これを中国の地方政権とするか、朝鮮の歴史に含めるかについては議論がある(高句麗#歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題)。
- 紀元前194年 衛満が、箕子朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮を建てる[4]。
- 紀元前128年 前漢が蒼海郡を設置[4]。
- 紀元前108年 前漢が、衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)を置く[4]。
- 紀元前82年 真番郡・臨屯郡を廃する[4]。
- 紀元前75年 玄菟郡を西に移し、半島には楽浪郡だけとなる[4]。
- 紀元前37年 高句麗が成立[4]。
紀元後[編集]
遼東公孫氏が朝鮮を支配し帯方郡を置くが、その後、楽浪郡と帯方郡は魏から西晋に引き継がれる。また、朝鮮半島東南部の辰韓は秦からの移民ともいわれる。
- 12年 王莽が高句麗王騶を殺し[4](瑠璃明王#中国歴史書の記述)、高句麗を下句麗とする。
- 32年 高句麗が後漢に入貢し、王と称する[4]。
- 167年 玄菟太守の公孫琙が高句麗を討つ[4]。
- 204年 公孫氏が帯方郡を置く[4]。
- 238年 魏が公孫氏を滅ぼし、帯方郡を支配[4]。
- 244年 魏の毌丘倹が高句麗の都である丸都城(現在の集安市)を占領[4]。
- 294年 鮮卑慕容部の大人の慕容廆が高句麗を攻撃[4]。
- 313年 高句麗が楽浪郡を滅ぼし、帯方郡も滅びる[4]。
- 342年 前燕の慕容皝が高句麗を討ち丸都城を占領[4]。
- 372年 前秦から高句麗に仏教伝来。
- 377年 高句麗と新羅が前秦に入貢[4]。
- 384年 東晋から百済に仏教伝来。
- 436年 北燕天王の馮弘が高句麗に亡命するが翌年殺される[4]。
- 458年 百済の蓋鹵王が南朝宋から鎮東大将軍の爵号を受ける。
- 472年 百済の蓋鹵王が北魏に使者を送り、高句麗出兵を求めるが、出兵を得られず。
高句麗は隋からの攻撃は撃退したが、唐と新羅が同盟(唐・新羅の同盟)を結び、百済と高句麗を滅ぼした。
- 598年 第1次隋の高句麗遠征。
- 612年 第2次隋の高句麗遠征。
- 613年 第3次隋の高句麗遠征。
- 614年 第4次隋の高句麗遠征。
- 624年 高句麗に道教公伝。
- 644年 第1次唐の高句麗出兵。
- 648年 新羅が唐に救援を求める。
- 650年 新羅が独自の元号を廃し唐の元号を用いる。
- 660年 唐と新羅が百済を滅ぼす(唐・新羅の同盟)。
- 661年 第2次唐の高句麗出兵。
白村江の戦い後[編集]
唐は、熊津都督府・安東都護府・鶏林州都督府を置いて朝鮮全体を支配しようとするが、唐・新羅戦争の結果、唐は撤退し、新羅が朝鮮半島の中南部を支配する。一方、渤海が興り、高句麗の旧領土の大部分を支配する。渤海については、大韓民国では朝鮮の一部として南北国時代と称しているが、中華人民共和国では中国の少数民族による地方政権とする(渤海 (国)#歴史論争:渤海の歴史帰属をめぐる問題)。新羅は中国の制度を取り入れ、人名も中国風に変えた。張保皐が中国から朝鮮にわたる海上勢力を作った。
- 663年 白村江の戦いで唐・新羅連合軍が倭国・百済遺民の連合軍を破る。
- 668年 唐の高句麗出兵により高句麗が滅亡。唐は平壌に安東都護府を置く[4]。
- 670年 唐・新羅戦争始まる。新羅は戦争中も唐との朝貢冊封関係を維持し、唐の年号を使い続けていた。
- 676年 唐が朝鮮半島から撤退。
- 698年 靺鞨の大祚栄が震国(後の渤海)建国[4]。
- 713年 大祚栄が唐から渤海郡王に冊封される。
- 846年 弓福(張保皐)の乱。
- 958年 新羅が科挙制度導入。
10世紀初に唐が滅んだ後、渤海も滅び、高麗が新羅に代わる。高麗は渤海からの遺民を多く受け入れた。高麗は五代や宋に服属していたが、遼(契丹)に攻められ遼に服属する。高麗は渤海が滅んだ後の地にいた女真を侵略して領土を北に広げるが、女真が金を建て遼を滅ぼすと、高麗は金に服属する。
- 926年 遼が渤海を滅ぼし、東丹国を置く[4]。
- 933年 高麗が後唐の冊封を受ける。
- 963年 高麗が宋に服属[4]。
- 993年 契丹の高麗侵攻 、高麗は遼に服属するが、江東6州を得る。
- 1010年 契丹が高麗の都である開京を占領。
- 1016年 高麗がまた宋の年号を使う[4]。
- 1018年 契丹がまた高麗に侵入するが大敗する(亀州大捷)。
- 1022年 高麗が契丹の年号を使う[4]。
- 1033年~1044年 契丹に備え千里長城を建設[4]。
- 1080年 『小華集』。
- 1107年 高麗の尹瓘が女真を侵略し東北九城を築くが、翌年に女真に返して撤退する。
- 1126年 高麗が金に服属する[4]。
モンゴルによる侵攻後[編集]
高麗は13世紀にモンゴル帝国(元)の侵攻を受け支配下に入った。代々の高麗王の世子(世継ぎの太子)はモンゴル貴族や皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、父の死後、高麗王に任命されるのが習慣となる。高麗王の母は、みなモンゴル人となり、4代の高麗王は元皇帝の娘婿となる。元は高麗を服属させた後に征東等処行中書省(征東行省)を設置し、朝鮮半島全土に及ぶ行政・政治・軍事の執行機関とした。また元は朝鮮半島北西部に東寧府を、北東部に双城総管府を、済州島に耽羅総管府を置いて支配した。
- 1232年 モンゴルの高麗侵攻が始まる。江華島へ遷都。
- 1258年 双城総管府。
- 1259年 高麗の太子(のちの元宗)がフビライに降り、モンゴル帝国(元)の属国化。
- 1259年 蒙古に服属、太子、蒙古に赴く[4]。
- 1260年 忠烈王は、大ハーンに即位したフビライの娘婿となる。
- 1363年 木綿伝来。
- 1270年 蒙古が高麗から慈悲嶺以北を奪い東寧府を設置[4]。高麗の完全植民地化。
- 1273年 三別抄の乱を元の力で鎮圧。耽羅総管府(~1290)。
- 1274年 文永の役(元寇、中国の呼称:第一次元日戰爭、朝鮮の呼称:第1次日本遠征 제1차 일본원정)
- 1278年 辮髮・胡服令。
- 1281年 弘安の役(元寇、中国の呼称:第二次元日戰爭、朝鮮の呼称:第2次日本遠征 제2차 일본원정)
- 1287年 元の征東行省が常設され、元朝の領土化。
- 1289年 哈丹の寇により都を江華島に移す。
- 1290年 東寧府を高麗に返す[4]。
- 1290年~1291年 哈丹の侵寇[4]。
- 1302年 忠烈王元廷訪問、元室との通婚[4]。
- 1325年 忠宣王、元に客死[4]。
元が衰えると独立し、北方の領土を回復した。明が興ると高麗に代わって親明を掲げる李氏朝鮮が建国され、明に朝貢した。当初は明から権知朝鮮国事とされ、国王にはしてもらえなかった。李氏朝鮮の国王は、中国皇帝がいる北京の方向に向かって遥拝する望闕礼という儀式を行っていた。李氏朝鮮は女真を侵略し、北部に領土を広げた。
- 1354年 恭愍王による反元運動が始まる。
- 1356年 元軍が高麗から撤退(双城総管府を回復)。元の年号を止める。江西八站を攻略[4]。
- 1359年~1362年 紅巾の乱が高麗に侵入し、開京を占領。
- 1370年 明の年号を用いる[4]。
- 1388年 崔瑩、遼東を攻める[4]。
- 1388年 親明派の武将李成桂がクーデターを起こし実権者になる(威化島回軍)。
- 1392年 李成桂が高麗の恭譲王から王位を簒奪し、高麗王に即位。明より権知高麗国事として認められる。
- 1393年 李成桂が権知朝鮮国事に冊される。明の皇帝に、国号を「朝鮮」と「和寧」の2案から「朝鮮」を選んでもらう。
- 1401年 明から朝鮮国王へ冊封される。
- 1437年 六鎮[4]。
- 1443年 訓民正音の制定(1446年公布)。
- 1443年 四郡(ko:사군)。
- 1460年 オランカイ、会寧に入寇[4]。野人女真を攻撃[4]。
- 1467年 建州女真を討つ[4](李滿住)。
- 1479年 朝鮮軍、明軍とともに女真と戦う[4]。
- 1491年 野人女真を攻撃[4]。
- 1502年 西北の人口希薄の地に、南方人を移住さす[4]。
- 1504年 夷三族法を立つ [4]。
- 1523年 野人閭延等の地を侵す [4]。
- 1568年 平安道の女真を放逐 [4]。
- 1571年 明の李成梁、鴨緑江畔に築塁、朝鮮これを撤去せしむ[4]。
- 1583年 女真人、慶源に拠る、朝鮮これを逐う[4]。(尼湯介이탕개/니탕개の乱)
大航海時代後[編集]
|16世紀に豊臣秀吉に国土の大半を征服されるが、明の救援と秀吉の死去により国土を回復した。17世紀には満洲人が建てた清の侵攻を受け、大清皇帝功徳碑を築くなどの屈辱的な条件で降伏し、冊封体制・羈縻支配下に入った。しかし朝鮮では「崇明反清」の思想が強く、自らを明の後を継ぐ小中華とし、清をオランケ、野蛮人として侮蔑していた。明が滅び清に冊封されても、私的には崇禎や永暦などの明の年号を使い続け、大報壇を作って明の皇帝を祀っていた。朝鮮の一部では清の学問を学ぶ北学も生まれたが、広まる事はなかった。また清から朝鮮にキリスト教(西学)が流入したが、何回も弾圧を受け、多くの犠牲者が出た。
- 1592年~1596年 文禄の役(朝鮮の呼称:壬辰倭乱)
- 1597年~1598年 慶長の役(朝鮮の呼称:丁酉再乱)
- 1600年 明軍、朝鮮から撤退[4]。
- 1616年 光海君の明・金中立外交。
- 1619年 サルフの戦い。
- 1620年 後金の兵、朝鮮に入る[4]。
- 1627年 丁卯胡乱。
- 1630年 劉興治(ko:유흥치)の乱、明将を殺し椵島(ko:가도 (철산군))に拠る[4]。
- 1636年 丙子の乱。
- 1637年 三田渡の盟約。明に替わり、清に服属。大清皇帝功徳碑。 王子、清の人質となる。清の年号を用いる。
- 1641年 清攻撃の策謀発覚し、清、朝鮮を責める[4]。
- 1643年 キリスト教伝わる[4]。
- 1653年 初めて洋暦を行う[4]。
- 1654年、1658年 羅禅征伐(ko:나선정벌)。
- 1705年 大報壇を設け、明の神宗を祀る[4]。
- 1712年 白頭山に定界碑を建立。
- 1716年 祠を南原に建て秀吉の朝鮮役に戦死した明将を祭る[4]。
- 1778年 朴斉家が中国に行く。『北学議』。
- 1780年 朴趾源が中国に行く。『熱河日記』。
- 1784年 李承薫が北京から朝鮮に天主教の書籍を持ち込む[4]。
- 1791年 辛亥邪獄。
- 1794年 清人の宣教師周文謨がソウルに入る[4]。
- 1801年 辛酉邪獄。
- 1815年 乙亥迫害。
- 1827年 忠清道・全羅道でカトリック弾圧。
- 1839年 己亥迫害、フランス人神父などを殺害。
- 1866年 丙寅教獄。
19世紀末には日本、清、ロシアが朝鮮半島をめぐって対立する。日清戦争での日本の勝利のおかげで、朝鮮は中国との長きにわたる冊封体制から離脱。国号も、中国によって決められていた朝鮮から、独自に大韓帝国へと変更して独立する。それまでの漢文に変わってハングルが公的に使われるようになる。朝鮮国王は皇帝に昇格し、それまで中国皇帝だけが行っていた祭天儀式を行うため圜丘壇を建てた。また間島などに朝鮮人が移住していった。
- 1882年 壬午事変。中朝商民水陸貿易章程を締結[4]。
- 1884年 甲申政変、清軍の介入により開化派のクーデターは失敗に終わる。
- 1885年 天津条約 (1885年4月)、日本と清は朝鮮に出兵する場合は相互通知。
- 1885年 興宣大院君が袁世凱に伴われて帰国[4]。
- 1885年 清鮮電信協約[4]。
- 1894年 甲午農民戦争(東学党の乱)。大院君派と閔妃派の対立が深まる。朝鮮は日清戦争で戦場となる。甲午改革(~1896年)。
日清戦争後[編集]
- 1895年 日清戦争で清が敗れ、下関条約で朝鮮が独立国であることを日本が確認する。朝鮮から清への貢・献上・典礼等は廃止される。
- 1896年 朝鮮独自の年号、建陽を制定。
- 1897年 朝鮮は清の冊封体制から離脱し、朝鮮国から大韓帝国と国号を改め、王は皇帝を名乗る。10月12日圜丘壇で皇帝即位式。
- 1909年 間島協約、朝鮮と清の国境が定まる。
- 1910年 韓国併合、日本に併合。
- 1931年 万宝山事件、朝鮮排華事件。
- 1941年 中国国民党は、大韓民国臨時政府に「韓国光復軍行動準縄」を強いて、大韓民国臨時政府を中国軍の参謀総長の統制下に置き、大韓民国臨時政府の趙素昻外相が駐華アメリカ大使に、「中国が日本の降伏後に、再び韓国を中国の宗主権の下に置こうとしているためかもしれない」という説明を行う[5]。
太平洋戦争後[編集]
第二次世界大戦後、朝鮮半島はアメリカ合衆国とソビエト連邦が分割占領し、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国ができた。朝鮮戦争には建国間もない中華人民共和国も参戦し、大きな被害を出した。
- 1948年 大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)ができる。
- 1950年6月25日 北朝鮮の朝鮮人民軍が38度線を南侵し朝鮮戦争が勃発。
- 1950年10月 中国共産党の中国人民志願軍が朝鮮戦争に参加。
- 1952年 中国が以前の間島を延辺朝鮮族自治区とする。
- 1953年7月27日 板門店で朝鮮戦争休戦協定が調印され、現在の軍事境界線が敷かれる。
- 1955年 延辺朝鮮族自治区が延辺朝鮮族自治州となる。
- 1956年8月29日 北朝鮮の8月宗派事件で、ソ連派の朴昌玉、延安派の崔昌益などが金日成に粛清される。
- 1958年10月 北朝鮮に駐留する中国人民志願軍が撤退[4]。
- 1961年7月11日 中朝友好協力相互援助条約締結。
- 1962年10月12日 中朝辺界条約締結。
- 1966年8月 北朝鮮が中国批判[4]。
- 1970年4月 周恩来首相が12年ぶりに北朝鮮訪問[4]。
- 1975年4月 金日成が中国を訪問[4]。
- 1983年6月 後継者に内定した金正日が中国を訪問し、帰国後に鄧小平の改革開放を批判[6]。
- 1987年11月29日 大韓航空機爆破事件発生。北朝鮮の国家ぐるみで実施したテロ行為だった、これはソ連や中国といった旧“東側諸国”の有力国家(大国)のコントロールを離れて行ったものであり、その上で「朝鮮半島有事には中ソの支援を要求する」という身勝手ぶりに、ソ連と中国は北朝鮮との距離をとるようになる。中国はソウルオリンピック参加を正式決定。当初ボイコットをほのめかしていたソウルオリンピックに北朝鮮以外の東側国家が参加を表明したのも、この一連の流れが原因である。
- 1990年 中国政府の提案[7][8]で構想されたUNDPの図們江開発計画が頓挫。
- 1991年 金日成が生涯最後の外遊で中国を訪問し、鄧小平の説得で羅津・先鋒経済貿易地帯を設置[9]。
- 1992年 中韓国交正常化。瀬島龍三伊藤忠商事会長は戦後に経済協力を通じて東洋の平和を実現するという考えを抱いていため、1986年に中国の鄧小平ラインの人物を紹介していた。それが当時韓国大統領であった盧泰愚と鄧小平を結び、国交正常化の決定的な役割をした[10]。韓国は台湾と断交して中国と国交を樹立し、盧泰愚が韓国の大統領で初めて訪中、中国は銭其琛が訪朝して金日成と意見調整[11]。
- 1997年 理論面で北朝鮮の体制を支えてきた黄長燁が北京の韓国大使館から亡命。
- 2000年5月 金正日が初外遊で中国を訪問し、江沢民と南北首脳会談前の意見調整[12]。
- 2001年1月 金正日が中国を再び訪れて上海を視察して改革開放に意欲を示す[13]。
- 2002年11月 新義州特別行政区行政長官だった中国人の楊斌が中国で逮捕。
- 2003年8月 第1回6カ国協議が北京で開催。
- 2008年12月 第1回日中韓首脳会談が福岡で開催。
- 2010年10月 周永康が訪朝し、金正日の隣で軍事パレードを観閲。
- 2013年2月 右派の朴槿恵が、左派のムンジェインを破って、韓国大統領に就任。
- 2013年7月 李源潮が訪朝し、金正恩の隣で軍事パレードを観閲。
- 2013年12月 金正恩の後見人であり、親中派で中国との経済交流を取り仕切っていた張成沢が処刑。
- 2014年7月 習近平が韓国を訪問。
- 2015年12月 中国と韓国の自由貿易協定(中韓FTA)が発効[14]。
国交樹立以後の経済交流拡大で中国は韓国最大の貿易相手国となり、韓国国債の最大保有国にもなるも[15]、一方で蘇岩礁(離於島)の領土問題がある。
また、前出の張成沢粛清後を境に中朝関係が停滞しており、北朝鮮の貿易の9割超[16][17]を占めてきた対中貿易への依存は続くも中朝貿易は減少傾向にあり、民間でも度重なる核実験や朝鮮人民軍の脱北兵士による越境犯罪で中朝国境で北朝鮮に対する住民感情や中国世論は厳しくなっており[18][19][20]、中国各地では反北朝鮮デモも起きている[21][22]。習近平総書記はより中韓関係を強化した南北等距離外交を行っており、中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典では韓国の朴槿恵は習近平の隣に座り、北朝鮮が派遣した崔竜海は端に座らされ、金日成の所属した東北抗日連軍の模範部隊を参観した[23][24]。さらに朴槿恵は中国政府が費用全額負担で改修した大韓民国上海臨時政府庁舎の再開館式にも出席した[25]。その後の劉雲山訪朝で中朝は再接近したが、牡丹峰楽団公演の中止にはじまり核実験で再び冷え込み、軍事パレードを金正恩の隣で閲兵した劉雲山の姿が北朝鮮の記録映画から削除された。金正恩が2018年3月25日に訪中して習近平との初めての首脳会談を行って以降、中朝関係は徐々に改善に向かいつつある。
- 2016年7月8日 アメリカと韓国は、在韓米軍にTHAADミサイルの配備を決定。配備に対し中国は「強烈な不満と断固たる反対」の意思を表明し[26]、対抗措置として反韓政策の禁韓令が採られるようになった[27]。
- 2017年2月 中国政府が庇護していた金正日の長男・金正男がマレーシアで暗殺される。
- 2017年4月6日 ドナルド・トランプアメリカ合衆国大統領は中国の習近平国家主席と行った米中首脳会談で交わした対話の内容をウォール・ストリート・ジャーナルのインタビューで話し、習近平が「韓国が中国の一部だった」と発言したことを明らかにし、トランプは「習近平主席が中国と朝鮮半島の歴史について話した。数千年の歴史と数多くの戦争について。韓国は実は中国の一部だった」「韓国は実際に中国の一部だった(Korea actually used to be a part of China)」「習主席から中国と韓国の歴史について聞いた。北朝鮮ではなく韓半島全体の話だった。(中国と韓国には) 数千年の歳月の間、多くの戦争があった」と述べて韓国政府が反発した[28]。これについて、ファン・ギョンムン南カリフォルニア大学教授は「韓国が中国の属国だったという認識は中国本土ではいくらか信頼を得ている」と指摘しており[29]、東亜日報は「紀元前に漢が韓半島北部に漢四郡を設置した時や13世紀の元の拡張期を挙げることはできるだろうが、いずれも韓国が中国に完全に従属したと見るには無理がある」と反論している[30]。
- 2017年4月14日 中国国際航空は、2008年から週3便体制で運航してきた北京 - 平壌線を利用客の減少を理由に同月17日から停止することを表明[31]。
- 2017年5月4日 北朝鮮の労働新聞は「朝中親善がどれだけ大事でも命のような核と交換してまで乞う我々ではない」と異例の名指しで中国を批判する個人名義論評を掲載し、中国の環球時報も中朝友好協力相互援助条約の見直しを主張して応酬[32]。
- 2017年9月3日 中国は北朝鮮からの留学生の受け入れを中止し、国内の北朝鮮留学生を監視して大学の研究室などへの出入りを禁止したと報じられる[33]。北朝鮮の科学者は論文発表の9割近くが共同研究であり、そのうち80.9%を中国人科学者が占める[34]ことから中国は科学技術の流出を懸念したとされる[33]。
- 2017年9月23日 中国人民銀行が北朝鮮の個人や企業の取引停止を中国の五大銀行に指示したことが報じられる[35]。
- 2017年9月28日 米中協議[36][37]で可決してきた北朝鮮の核実験に対する国際連合安全保障理事会の制裁決議に基づき、北朝鮮人の雇用に罰金を科すことや強制送還も行うことが通達され[38]、中国商務省と国家工商総局は、中国国内で北朝鮮が設立した合弁企業などを閉鎖する措置を決定[39]。これにより貴重な外貨獲得源だった世界に約130店ある北朝鮮の食堂事業のうち中国にある100店が閉鎖されることになり[40]、中国にあった世界最大の北朝鮮レストランも閉館した[41]。
- 2017年10月2日 - 2016年4月に南シナ海問題を巡る対立で香港への寄港を中国政府から拒否されていた原子力空母ロナルド・レーガンが3年ぶりに香港寄港を認められ、北朝鮮を牽制した[42]。寄港中には第七艦隊司令官と中国人民解放軍幹部の会談も調整され[42]、空母レーガンは米軍が戦略兵器を集結させてる朝鮮半島に向かって大規模な合同軍事演習を行った[43]。
- 2017年11月17日 中国共産党第十九回全国代表大会の報告を目的に習近平総書記の特使として中国共産党中央対外連絡部部長の宋濤が訪朝。朝鮮労働党副委員長の崔竜海との会談が行われた[44]ものの、金正恩との会談は明らかにされなかった[45]。
- 2017年12月12日 レックス・ティラーソンアメリカ合衆国国務長官は金正恩体制崩壊や米朝戦争のような朝鮮半島有事を想定した核の確保と難民対策や38度線を越えた米軍の撤退など具体的対応を中国と協議してることを初めて表明した[46][47][48]。同時期、中国による中朝国境での難民収容所の建設[49]と中朝友誼橋の一時閉鎖[50]、放射線対策や国境統制の強化が伝えられ[51]、実施された中国軍30万人の軍事演習も韓国語の学習から北朝鮮を占領する訓練と報じられた[52]。
- 2017年12月13日 韓国の文在寅大統領が中国を公式訪問して大統領では初めて重慶の大韓民国臨時政府の跡地[53]にも訪れた。国賓であったが、会談内容や格式、日程等が韓国側が望んでいた水準ではなかったと報道された[54]。
- 2017年12月22日 中国と米国の協議[55]により領海での制裁違反の可能性がある船舶に対する臨検及び拿捕などの義務化や石油精製品輸出の9割を削減して新たな核実験とミサイル発射があればさらに北朝鮮への石油供給制限も行うとする表現などを初めて記載した国連安保理決議が全会一致で採択された[55]。
- 2018年3月12日、韓国の鄭義溶国家安全保障室長が訪中して米朝首脳会談に向けた交渉での習近平総書記の果たした重要な役割に対する文大統領からの謝意を伝えた際[56]、座席配置が「皇帝式接見」として韓国で再び物議を醸した[57]。
- 2018年3月25日 金正恩は最高指導者就任後初の外遊として中国を訪れて習近平総書記と最高指導者就任後初の外国との首脳会談を行い、訪中を「命のように大事な朝中親善を引き継ぐ私の崇高な義務」と演説[58][59]、北朝鮮国内で金正恩が現地指導で部下にメモを取らせる姿と対照的[60][61]な習近平総書記の発言をメモに書き留める金正恩の姿は記録映画から削除されていた[62]。
- 2018年4月13日 公演を行う中国芸術団とともに中国共産党中央対外連絡部部長の宋濤が訪朝。異例である2度の会談を金正恩と行った[63]。
- 2018年4月24日 黄海北道で中国人観光客が犠牲になった交通事故を受けて金正恩が中国大使館と負傷者を治療してる病院を訪問し、負傷者などを乗せた特別列車を編成させて被害者に見舞金も送金するなど北朝鮮国内の事故を公表して最高指導者自らが謝罪する異例の対応を行い[64]、責任者は銃殺刑に処される[65]。
- 2018年5月2日 中国外相として11年ぶりに訪朝した王毅が金正恩と会談を行った[66]。
- 2018年5月7日 初めて航空機を外遊に利用して金正恩が中国の大連を訪れて習近平総書記と会談を行った[67][68]。朝鮮中央放送で中国の習近平総書記に面会した金与正が韓国の文大統領に直立で握手した時と対照的な2度も90度近くお辞儀した姿が報じられたことが話題となる[69][70]。
- 2018年6月10日 米朝首脳会談のため、金正恩が中国国際航空の政府専用機を利用してシンガポールを訪問[71]。
- 2018年6月13日 米朝首脳会談から金正恩は中国機で平壌に帰国[72]。
- 2018年6月15日 習近平総書記の誕生日への祝電を金正恩が花籠とともに5年ぶりにおくり、「血で結ばれた朝中友好をこの上なく大切に思う」と述べる[73]。
- 2018年6月19日 金正恩は三度目の中国訪問を行い、習近平総書記を「偉大な領袖」「偉大な指導者」と称え[74][75]、「中朝は一つの家族同然であり、古今東西に例のない関係」と演説[76]。
- 2018年7月27日 休戦協定締結65周年で金正恩は朝鮮戦争で戦死した毛沢東の長男である毛岸英の墓を訪れ、「中朝は地理的に近いだけでなく、互いの血と命を捧げて結ばれた例のない特別な関係」と述べた[77]。
- 2018年9月9日 北朝鮮の建国70周年記念行事で従来披露されてきた大陸間弾道ロケット(ICBM)が登場せず、経済建設が強調され、隣で閲兵する中国序列3位の栗戦書全国人民代表大会常務委員長と手を取り合って歓声に応え、栗戦書らとの会談で中国から非核化と経済重視の新戦略路線が評価された金正恩は中国の経験に倣って経済発展を推し進めると応じ[78][79]、5年ぶりに行われたマスゲームも中朝友好が演出されて栗戦書と金正恩が肩を並べて観覧した[80]。
- 2019年1月8日 金正恩が妻の李雪主や実妹の金与正らを伴って中国を訪問。金正恩の35歳の誕生日でもあったため、祝宴も行われた[81]。
- 2019年6月19日 北朝鮮の労働新聞に習近平総書記が寄稿して金正恩の経済建設路線を支持[82]。
- 2019年6月20日-21日 中国の指導者としては14年ぶりに習近平総書記が訪朝[83]。
世界各国の教科書における中朝関係の描写[編集]
- 「朝鮮は数百年間中国の属国だった」(カナダの教科書)[84][85]
- 「朝鮮は近代に至るまで、その国内での抵抗にかかわらず、中国と日本の属国だった」(オーストラリアの教科書)[86]
- 「朝鮮半島は古代から中国の植民地であった」(インドネシアの教科書)[87]
- 「朝鮮が17世紀に中国の支配に入っていて、これは中国が弱くなった19世紀末まで続いた」(タイの教科書)[85]
- 「朝鮮は中国の属国だった」「1600年代初め、中国が朝鮮を再び支配した。300年間、朝鮮は中国の統治下にあった」(アメリカの教科書)[88][85][86]
- 「朝鮮半島のあらゆる歴史は中国と日本の侵略と威嚇として綴られた」(フランスの教科書)[84]
- 「独裁及び傀儡国家」「政治的、軍事的に帝国主義に依存している」(チェコの教科書)[84]
- 「かつてロシアの植民地で、日本の植民地でもあった国家」(シンガポールの教科書)[89]
- 「中国語を使用している国家」(ウルグアイの教科書)[89]
- 「朝鮮半島は中国語使用地域」(アルゼンチンの教科書)[90]
- 「朝鮮半島の宗教は儒教」「公用語は中国語と日本語」(クウェートの教科書)[91]
- 「清は18世紀なかごろに(略)朝鮮・ベトナム・タイ・ミャンマーを属国とする大勢力となった」(日本・山川出版社 『詳説世界史』)
- 「いっぽう清国も、朝鮮を属国あつかいにした」」(日本・東京書籍 『日本史A』)
- 「(日清戦争で)日本の勝利となり、下関条約が結ばれ朝鮮の独立が認められた」(『中等世界史』 韓国・英志文化社 1959年)
- 「朝鮮は清の半属国だった」(『高等世界史』 韓国・教友社 1962年)
- 「サミュエル・P・ハンティントンは彼の著書『文明の衝突』で、わが国を中国の文明に抱含させている。外国人の目には、わが国の文化が中国とあまり差異なく見えるようだ」(『高等学校世界史』 韓国・教学社 2003年)
- 『世界史A』(実教出版、46頁)は、モンゴル帝国の発展を示す地図のなかに安南と高麗を含め、『世界史B』(実教出版、145頁)と『高校世界史B』(実教出版、86頁)は、モンゴルの最大版図の外側に安南と高麗を同じ色刷の斜線で図示[92]。
- 世界の1億人を対象にした教科書を出版しているピアソン・エデュケーションは、朝鮮半島を中国の属国に定義付ける世界史の試験問題を出題[93]。
- 1478年から現在まで、アメリカ合衆国(以下アメリカ)をはじめ、日本、カナダ、中国など世界約50か国で教科書を出版しているオックスフォード大学の出版社が制作している中学校課程教科書は、古代中国の領土を表記した「古代の世界」の1ページで、朝鮮半島全体を中国領土に抱含[93]。
- アメリカの世界史教科書では万里の長城が鴨緑江近隣までのびている地図が掲載され、「1640年代に朝鮮は中国・清王朝の属国になった」と記述[94][95]。
- アメリカの大部分の教科書は朝鮮半島が「中国と日本の属国」と記述[96]。
- アメリカの教科書は、古代の中国地図に朝鮮半島を中国の領土と表記[91]。
- アメリカのマクドゥーガル・リトル出版社が発行している教科書に収録された1850~1910年に分割占領された中国領土地図[1]には、朝鮮半島が中国領土であるかのように領域圏を明示したうえで、朝鮮半島と台湾を日本が植民地化したものと図示[97]。
- メキシコの教科書は、朝鮮半島を1910年以前の中国領と表記し、朝鮮民族ではない他民族の写真を掲載[91]。
- アメリカ14州で教科書に採択しているホルト・ラインハルト&ウィンストン出版社の「世界史、人間と国家」は、高句麗や渤海、高麗、朝鮮等も中国の一部であるかのように記述し、「中国の朝鮮半島統治は朝鮮文化にどのような影響を及ぼしたか」という回答を誘導[98]。
- VANKに拠ると「全世界の学生の朝鮮半島に対する認識を形成させる外国の教科書は、『朝鮮半島を中国や日本の属国で貧しい農耕国家』と記述」している。[99]。
- アメリカの教科書は朝鮮半島関連の内容を少なく扱い、朝鮮半島を中国・日本の周辺国と描写しており、朝鮮半島が中国と日本の支配を順に受けたかのように記述しており、「1600年代から中国が朝鮮を300年間支配した」と記述[100]。
- 外国の世界史の教科書の50 %以上は朝鮮半島史を半ページ程度紹介しているだけで、10ページ余り近い日本史、中国史の20分の1の水準である。ワールド・ヒストリー・ピープル&ネーションズの教科書は、紀元前87年の漢の領土が漢江の南まで下っている。万里の長城は豆満江までつながり、13世紀の高麗はモンゴルの属国、朝鮮は清の植民地として描写。ワールド・ヒストリー&ユーの教科書は、日本・中国と異なり、朝鮮半島史は朝鮮戦争から叙述。ロンリー・プラネットの教科書は、「韓国人男性は本能的に外国人男性に排他的だ。これは女性を奪いに来ていると誤解しているため」と叙述され、これをモンゴルの侵略以後に膨らんだ心理状態と描写[101]。
- 小中高の教科書と旅行関連書籍、マルチメディア教育用CDロムタイトルを米国、豪州、ニュージーランド、インド、ドイツ、南アフリカ、カナダに供給する世界最大規模の多国籍教科書および旅行関連書籍を発行するイギリスに本部を置く出版社DK社が発行する教科書に韓国の公用語は中国語とハングルと表記[102]。
- 香港の中学1年の歴史教科書の150ページは、魏・蜀・呉の三国時代の記述で、初期の高句麗領土に該当する地域を魏の領土として色分けする[103]。
- 村井友秀は、1953年発行の中国政府の国定教科書には、かつての朝貢国(インドシナ半島、朝鮮半島)は、「外国に奪われた中国の領土である」と記述していることを指摘している[104]。
- スペインの教科書は、朝鮮半島で使われている文字を漢字、朝鮮半島の人種を中国-モンゴル人種として表記して、スペイン、オーストリア、オランダ、カナダの教科書は、朝鮮半島に対する叙述が近・現代史に限定され、中国と日本・米国と旧ソ連の至大な影響の下、被侵の歴史が染み付いた弱小国という印象が非常に濃厚に滲み出る[105]。
- 延世大学教授の柳錫春は、インドネシア、フィリピン、タイの教科書では、朝鮮半島の歴史を日本や中国の一部と記述している[106]。
- トルコの高校地理教科書は、「朝鮮半島の民族は大部分朝鮮人だが、残りは中国人と日本人で構成されている」と記述[107]。
- 全世界の大部分の教科書では、朝鮮の歴史が中国・ロシア・日本の植民地と紹介され、大部分の外国の子供たちは朝鮮史は中国の植民地と認識している。また、外国の教科書には、「朝鮮半島は中国と日本という鯨の間に挟まれた海老」だと載っている[108]。
- アメリカをはじめとする多くの国家で日本中心の歴史観をそのまま借用し、「中国と日本の属国として綴られている歴史を持っている」という記述が主流となっている[84]。
- アメリカの中等学校の社会科の教科書『世界地理‐世界的観点』には、「彼ら(朝鮮)は中国の文字表記法を借用し、多くの中国の語彙を改造して使用した」と叙述[109]。これについて韓国教育課程評価院のパク・ソンミ研究委員は、「アメリカの教科書執筆者らが、朝鮮文化が中国文化圏に属しているという考えを持っているためであるようだ」と指摘[109]。
- アメリカの世界史の教科書には中国と朝鮮の間の朝貢秩序を、朝鮮を中国の属国と見なす内容がある[109]。国教育開発院の李讃熙博士は「朝鮮半島の歴史を主体的に扱っておらず、中国、日本などの歴史叙述のために付随的に挿入されているケースが多い」と指摘[109]。
- アメリカの教科書は、朝鮮半島関連の内容を「中国の周辺」という節でモンゴルの次に紹介し、主に中国と日本に焦点が合わされ、日本に関する内容は学年に関係なく多い反面、朝鮮半島に関する内容は得にくい状態となっている[88]。
- アメリカの教科書は、東洋の代表的文化といえば中国と日本だけしか書かれず、また、朝鮮は中国と日本の子分と書かれ、万里の長城が平壌まで引かれ、朝鮮が清朝の領土になっている[110]。具体的にアメリカの教科書に、「朝鮮は独自の文化をもつ東アジアの国である。その長い歴史の大半を、朝鮮は周辺の大国に支配されてきた。なかでも中国や日本は頻繁に朝鮮を政治的に支配してその文化に影響をおよぼした。(中略)朝鮮半島の北方地域は、中国皇帝の領土となった。西暦1年ごろから900年まで朝鮮は三つの王国にわかれていた。中国の文化は朝鮮半島の北方にある王国に強い影響をおよぼした。この時期に仏教、儒教、そして漢字が朝鮮半島に入ってきた。日本の文化は、南方にある二つの王国にたいして中国以上の影響をおよぼした。(中略)高麗の王たちは独自に朝鮮を治めていたが、モンゴル帝国に朝貢しなければならなかった。(中略)朝鮮人は、科挙制度をはじめさまざまな中国の文物を取り入れ、中国文化にのめりこんでいった。(中略)満州族の影響。朝鮮人は日本との戦いで疲弊した。その結果、1630年代、満州からきた新しい侵略者は全土をあっというまに征服した。李王朝の統治者は権力を維持したものの、満州族の政府に服属した。中国の満州族政府は日本の影響力が強まることを望まなかった。満州族は李王朝に対する統制をよりいっそう強固なものにしようとした。(中略)日清戦争終結後の1895年末、中国は朝鮮の独立を認めた。日本はこうして満州族の朝鮮支配を終焉させた。(中略)朝鮮は第二次世界大戦で日本帝国が敗れる1945年まで独立できなかった。現在も朝鮮は、中国、日本、アメリカのような大国の影響下から抜け出せずにいる」と記述[110]。これについて金完燮は、朝鮮が明朝と清朝の属国だったことは事実であるため、朝鮮半島を明朝、清朝の領土というのも自然であり、「朝鮮が独立国だったかのように教える韓国の教科書が異常なのだが、(中略)私たちが日本の助けで1897年に初めて独立国になったという事実を知らない」と述べている[110]。
- スイスの小学校地理教科書は朝鮮半島を中国の領土と表記している[111]。