群雄割拠を繰り返す中国史.第1巻では華北を中心に,先史時代から中華帝国が形成される八世紀半ばの唐代中期までを扱う.
「中国」はどこから来てどこへ行くのか。群雄割拠を繰り返してきたその雄大な歴史を、多元的な視座から描きだす。第一巻では黄河文明が栄えた華北を中心に、先史時代から春秋戦国、秦漢、三国時代などを経て、中華帝国が形成される八世紀半ばの唐代中期までの三千年を扱う。伝統中国の原型がいま明らかになる。
南宋と金・モンゴル(海権と陸権)[編集]
南宋[編集]
1127年には、金の圧迫を受け、宋は、江南に移った。これ以前の宋を北宋、以降を南宋という。南宋時代には、江南の経済が急速に発展した。また、すでに唐代の終わりから、陸上の東西交易は衰退していたが、この時期には、ムスリム商人を中心とした海上の東西交易が発達した。当時の宋の特産品であった陶磁器から、この交易路は陶磁の道と呼ばれる。南宋の首都にして海上貿易の中心港だった杭州は経済都市として栄え、元時代に中国を訪れたマルコ・ポーロは杭州を「世界一繁栄し、世界一豊かな都市」と評している。
モンゴルの台頭[編集]
13世紀初頭にモンゴル高原で、成吉思汗(チンギス・カン)が、モンゴルの諸部族を統一し、ユーラシア大陸各地へと、征服運動を開始した。モンゴルは、東ヨーロッパ、ロシア、小アジア、メソポタミア、ペルシャ、アフガニスタン、西蔵(チベット)にいたる広大な領域を支配し、この帝国はモンゴル帝国(蒙古帝国)と呼ばれる。
モンゴル帝国は各地に王族や漢人有力者を分封した。モンゴル帝国の5代目の君主(ハーン)にクビライ(忽必烈)が即位すると、これに反発する者たちが、反乱を起こした。結局、モンゴル帝国西部に対する大ハーン直轄支配は消滅し、大ハーンの政権は中国に軸足を置くようになった。もっとも、西方が離反しても、帝国としての緩やかな連合は保たれ、ユーラシアには平和が訪れていた。1271年にクビライは元を国号として中国支配をすすめた。
南宋とモンゴルの関係[編集]
中国もまたモンゴル帝国の征服活動の例外ではなかった。当時、黄河が南流し、山東半島の南に流れていたため、漢民族は北方民族の攻勢を防げなかった。華北は満州系の女真族による金が、南部を南宋が支配していたが、金は1234年、南宋は1279年にモンゴル帝国に滅ぼされた。中国南部を支配していた南宋を1279年に元朝が滅ぼしたのはすでに見たとおりである。
元(征服王朝による中華支配)[編集]
遊牧体制から中華王朝へ[編集]
モンゴルの元朝の中国支配は、伝統的な中国王朝とは大きく異なっていた。モンゴル人は中国の伝統的な統治機構を採用せず、遊牧民の政治の仕組みを中国に移入したからである。元の支配階級の人々は、すでに西方の優れた文化に触れていたため、中国文化を無批判に取り入れることはなかった。それは政治においても同様だったのである。
それに伴い、伝統的な統治機構を担ってきた、儒教的な教養を身に付けた士大夫層は冷遇され、政権から遠ざけられた。そのため、彼らは曲や小説などの娯楽性の強い文学作品の執筆に携わった。この時代の曲は元曲と呼ばれ、中国文学史上重要なものとされる。また、モンゴル帝国がユーラシア大陸を広く支配したために、この時期は東西交易が前代に増して盛んになった。
元朝は、宮廷費用などを浪費しており、そのため塩の専売策や紙幣の濫発で収入を増やそうとした。しかし、これは経済を混乱させるだけであった。