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つれづれなるままに日暮らし

桃太郎伝説 : 水内(みのち)逍遥

桃太郎伝説 : 水内(みのち)逍遥 (*) 2016/05/24

桃太郎伝説 - 奈良文化財研究所 飛鳥資料館倶楽部

桃太郎伝説のもとになった四道将軍

 第10代 崇神天皇の時代,大和朝廷の支配を固めるため日本各地に軍が送られました。これは,「教えに従わない者は兵をもって討て」という天皇の命令があったからです。北陸には大彦命(おおひこのみこと),東海に武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)丹波丹波道主命(たんばみちぬしのみこと),そして,西海に彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)を送りました。当時吉備地方で朝廷に叛いていたのは吉備冠者(=温羅)で,鬼ノ城に住んでいました。(岩屋辺りと思われる。)彦五十狭芹彦吉命はこの吉備冠者と戦いました。吉備を平定したために吉備津彦命(きびつひこのみこと)と名乗りました。西海には吉備津彦命のほか,樂樂森彦(ささもりひこ)命,吉備武彦(きびたけひこ,吉備津彦の子で,のちにヤマトタケルの東征に副将軍となって出かけています。)命,吉備津彦命の部下の遣霊彦命らが同行しました。さらに,吉備津彦命の后となった吉備大井姫(百田弓矢姫)の父である百田大兄命も戦に参加しています。百田大兄命は大井神社(岡山市大井)に祀られています。また,鼓神社(岡山県岡山市上高田)の社伝によれば,先方として大活躍したのが遣霊彦命で,吉備津彦命らと協力して吉備を平定することができました。鼓神社の主祭神となっている高田媛命は吉備津彦命の后,樂樂森彦命は高田媛命の父です。

十代崇神天皇(9)四道将軍 - 狗奴国私考

第299回講演会四道将軍たちの墓 - 邪馬台国の会

『日本書紀』の第十代崇神天皇紀十年九月の四道将軍 派遣記事

東海は武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)西道 (山陽)は吉備津彦命

古事記 東海は武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)

『卑弥呼と日本書紀』第四版 第九章(オロモルフ)

◆◆◆『崇神天皇と卑彌呼』弘文堂(昭和二十九年)◆◆◆

卑弥呼日本書紀416』

エ 魏志倭人伝について
 ながく卑彌呼=神功皇后だったのに対して本居宣長が九州の女酋としたのは画期的だった。白鳥庫吉が本居説を発展させた。橋本増吉も九州説で多くの論文を書いた。一方内藤湖南が明治四十三年に邪馬台国は大和であり卑彌呼は倭姫命であるとした。三宅米吉も大和説だった。大正になって笠井新也が『卑彌呼即ち倭迹迹日百襲姫命』を発表した。

〈五〉崇神天皇はいつ頃の人か

ア 朝鮮の史書から
 朝鮮の史書との照合で、應神・仁徳の御代が西暦四〇〇年前後なので、逆算すると崇神天皇の時代は西暦二〇〇年前後になる。

イ 崇神天皇崩御の干支
 古事記の最古の写本眞福寺本や住吉神社神代記に戊寅とあり、これは西暦二五八年である。両史料とも奈良時代のもの。海外との交流によって、崇神天皇の時代から干支が記憶されたのだろう。
 日本書紀の崩年は西暦前三〇年で、これは干支で辛卯であり、三世紀でおなじ干支を探すと、二七一年となる。
 自分としては三世紀前半が活躍期と考える。一方九州説ではこういった検討が無い。

卑弥呼日本書紀417』

日本の行基図

卑弥呼日本書紀418』

〈八〉倭迹迹日百襲姫命崇神天皇

〈九〉国内統一の進展

2 四道将軍の派遣

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