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つれづれなるままに日暮らし

神武天皇(初代)から昭和天皇(124代)まで @ おくり名

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日本書紀

神武天皇の諱(イミナ=実名)は「彦火火出見(ひこほほでみ)」で和風諡号は「神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)」です。また、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とも尊称されますが、この読みが第10代「崇神天皇(すじんてんのう)」の尊称「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」

初代神武天皇から第44代元正天皇弘文天皇文武天皇は除く)までは、弘文天皇の曾孫・淡海三船(おおみのみふね 722〜785)が勅令により、一括して選定されたといわれています。
 そもそも「天皇」という語の成立は、7世紀前半の推古朝説と近年では7世紀後半の天武・持統朝説があり、公的な称号として用いられたのは第40代天武天皇時代(673〜686年在位)のようです。

 実際に天皇に和風諡号が最初に適用されたのは、第41代の女帝「持統天皇(690〜697年在位)」で703年に崩御(ほうぎょ)され、翌年に「高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)」が贈られました。この「高天原広野姫天皇」の諡(オクリナ)は、高天原(たかまのはら)の主神「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」を暗示しているかのようです。
 最初に実際に天皇へ漢風諡号が適用されたのは、第42代「文武天皇」からです。

 和風諡号は第53代「淳和(じゅんな)天皇」を最後に止み、漢風諡号は第58代「光孝(こうこう)天皇」を最後に止みました。(崇徳(すとく)、安徳(あんとく)、順徳(じゅんとく)天皇を除く) 
 その後は、例えば「平城(へいぜい)」「一条(いちじょう)」「嵯峨(さが)」天皇など生前の宮所や御座所(おましどころ)など縁(ゆかり)の地名を根拠に尊称とする追号が全体をしめるようになりました。

知られざる欠史八代・葛城王朝 2008/07/13

初代・神武天皇神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)/始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
二代・綏靖天皇/神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
三代・安寧天皇磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
四代・懿徳天皇/大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
五代・孝昭天皇/観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
六代・孝安天皇/日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
七代・孝霊天皇/大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
八代・孝元天皇/大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
九代・開化天皇/稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと)
十代・崇神天皇/御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)/御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)

初代〜十代までの天皇の宮(位置は諸説あり大雑把です)

初代・神武天皇橿原宮(畝傍)奈良県橿原市畝傍町
二代・綏靖天皇高丘宮(葛城)奈良県御所市森脇
三代・安寧天皇浮穴宮(片塩)奈良県大和高田市片塩町
四代・懿徳天皇曲峡宮(軽)奈良県橿原市見瀬町・大軽町
五代・孝昭天皇池心宮(腋上)奈良県御所市池之内
六代・孝安天皇秋津嶋宮(室)奈良県御所市室
七代・孝霊天皇廬戸宮(黒田)奈良県磯城郡田原本町黒田
八代・孝元天皇境原宮(軽)奈良県橿原市見瀬町・大軽町
九代・開化天皇率川宮(春日)奈良県奈良市本子守町
十代・崇神天皇瑞籬宮(磯城)奈良県桜井市金屋

欠史八代*