司馬遼太郎氏著
「歴史を紀行する」
桃太郎の末裔たちの国より
「吉備」という語感がたまらなく好きである。上古岡山県は吉備国といった。
のち備前、備中、備後(備後のみは明治後広島県に編入)それに美作をくわえて四カ国にわかれたが、吉備といわれていたむかしは、出雲が大和朝廷に対する隠然たる一敵国であったように、吉備国もまた一個の王朝のすがたをとっていたにちがいなかった。
鉄器が豊富であった。
中国山脈で砂鉄を産したがために、武器、農具が多くつくられ、兵はつよく、土地ははやくからひらかれ、出雲とならんでいわゆる出雲民族の二大根拠地であり、その富強をもって大和に対抗していた。この点、岡山県は他県とはちがい、しにせが古すぎるほど古い。
備前国(赤磐市、岡山市、玉野市、備前市)
備中国(新見市、倉敷市、総社市、高梁市)
美作国(津山市、美作市、真庭市)
備後国(福山市、尾道市、三原市、三次市)
備前国
岡山市 吉備津彦神社
安仁神社(岡山市西大寺一宮)
赤磐市 石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社
備中国
岡山市 吉備津神社
美作国
津山市 中山神社
備後国
備後一ノ宮 吉備津神社(福山市新市町)
備後国 素盞鳴神社(疫隈国社)(福山市新市町)
(備中の吉備津神社の分霊を疫隈社(素盞嗚神社)の領地に造営)
吉備の国は、現在の岡山県と広島県の東半分
旧国名では、備前国、備中国、美作国、広島県の備後国から成り立っている。
吉備の国探訪は、岡山県を中心に編成しています。
<各時代の人物>
古 代 :出雲族(温羅)は吉備津彦に征服されて、鬼にされた。 古 代 :吉備津彦(桃太郎)の子孫ーー上道氏、下道氏は、雄略天皇に征服された。 古 代 :星川皇子の変(上道氏の支援を得て、皇位を狙ったが焼き殺された。) 壬申の乱: 672年吉備の国の軍団、吉備太宰などが少しだけ記述されている。 奈良時代:吉備真備 716年唐に留学、735年帰朝。多くの典籍、武具、楽器をもたらす。その後中央で活躍) 奈良時代:和気清麻呂 769年宇佐八幡宮の神託事件では、権力に恐れず朝廷を守り、流罪になった。 その後、京の都を造る現場監督として有名 現在、和気清麻呂の巨大な銅像が皇居の北東を守る場所に建っている。 ◆同じく皇居の南東を守る 華々しい楠木正成の銅像に比べて、注目されていないのが吉備人らしい。 平家物語:妹尾兼康 平家に忠節を尽くしたため、歌舞伎で悪役となった武将 承久の変:備前刀鍛冶 隠岐に流された後鳥羽上皇を支援した刀鍛冶集団(菊一文字で有名) 太平記 :児島高徳 尊王思想の代表で、南朝に忠節を尽くし、最後まで足利幕府に逆らった。 戦国時代:宇喜多秀家 関が原の合戦で、西軍の総大将となった。 幕 末:板倉勝静・山田方谷 最後まで幕府に随った備中松山藩 昭 和:犬飼毅元首相 515事件勃発(軍拡一方の軍部に反対し、中国に理解を示した) |