今から1400年以上前の6世紀、
日本に伝来したばかりの仏教をめぐってヤマト政権の二大勢力が激突した。
仏教を受け入れるべきと主張する名門豪族の物部氏と、
仏教を受け入れるべきではないと主張する新興豪族の蘇我氏である。
両氏族は激しくいがみ合い、
ついには日本初の宗教戦争ともいえる“丁未(ていび)の乱”に発展。
聖徳太子こと厩戸皇子を味方に付けた蘇我氏が勝利し、敗れた物部氏は滅亡した…
と『日本書紀』は伝えている。
しかし、近年の研究によって意外な事実が明らかになってきた。
物部氏と蘇我氏の対立は仏教の受け入れが原因ではない?
そこには欲望にまみれた権力者たちの陰謀がうごめいていた!?
物部氏を滅亡に導いたのは、皇室の大スキャンダルが起因?
推古天皇を激怒させた物部氏の蛮行とは!?
第29代 欽明天皇
飛鳥時代に起きた内乱
仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた。
乱の余波[編集]
丁未の乱後、物部守屋の子孫従類273人が四天王寺の奴婢にされたという従来からの通説は四天王寺御手印縁起をもとにしている。
伝暦、御記、太子物、今昔物語、扶桑略記、元亨釈書等では子孫縁者が奴婢とされたとの説が受け入れられている。これに対し日本書紀によると奴(奴隷等の使用人、奴国、倭奴などにも使われた蔑称)との記述のみのため、後世の脚色だとする神野清一の異説があるが、日本書紀に脚色が入る可能性は想定していない。
聖徳太子伝暦では「子孫資財」としている。通説では丁未の乱で物部の子孫が絶えず、奴婢に零落して生き続けたからこそ美化された伝説でなく、奴婢として記録に残ったという。
第30代 敏達(びだつ)天皇
第31代 陽明天皇