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つれづれなるままに日暮らし

王仁塚 (応神天皇) (*) 枚方市長尾

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8世紀に編纂された『古事記』・『日本書紀』によると

4世紀末に朝鮮半島百済国から王仁博士が論語10巻・千字文1巻を携え渡来し、

日本国に漢字と儒教を伝えたと記され、古代より学問の祖として崇められてきた。

枚方市内にこの王仁博士の墓と伝わる場所が存在する。
我国で儒教が最も盛んだった江戸時代中期、京都の儒者並川誠所が、

1731年(享保16年)に現・枚方市禁野にある和田寺の記録から藤阪山中の歯痛に霊験のある 「オニ塚」の自然石が王仁博士の墓であるとし、

領主の久貝氏に進言し、墓所として整備した。現在は大阪府の史跡として整備されている。
この並川誠所は、阿倍野区にある北畠顕家の墓も比定した人物であるが、どちらの墓も 殆ど確証がない塚を歴史上の有名人の墓とし、それを世間に認知させた事は、政治的な手腕に長けた人物だったようである。
この枚方とは別に、かっては王仁博士の墓が存在したという場所が大阪市北区大淀中町にあり、その跡地の神社には由緒を記した碑が建てられている。

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日本書紀〈応神紀〉』 応神天皇15年秋8月6日 

阿直岐に〝お前よりもすぐれた学者がいるかどうか〟といわれた。〝王仁というすぐれた人がいます〟と答えた。上毛野君の先祖の荒田別(あらたわけ)・巫別(かんなぎわけ)を百済に遣わして王仁を召された」 

応神天皇16年春2月に、「王仁がきた。太子莵道稚郎子はこれを師とされ諸々の典籍を学ばれた。すべてによく通達していた。王仁は書首(ふみのおびと)らの先祖である。この年百済の阿花王が薨じた」 

古事記』には、和邇吉師と記されています。 

百済の国王照古王が牡馬一疋・牝馬一疋を阿知吉師に付けてたてまつりました。この阿知吉師は阿直の史等の祖先です。また大刀と大鏡とをたてまつりました。また百済の国に、もし賢人があれば、たてまつれと仰せられましたから、命を受けてたてまつった人は、和邇吉師といい、論語十巻・千字文一巻、合わせて十一巻をこの人に付けてたてまつりました」 

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www.asiacenews.com 日本の中の王仁博士

枚方

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