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つれづれなるままに日暮らし

三王朝交代説

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(1)10代 崇神天皇 (*) (すじん)の皇統たる呪教(じゅきょう)王朝、

  • (1)崇神王朝は、三輪(みわ)王朝(三輪山を祭祀(さいし)する王朝)あるいはイリ王朝(崇神天皇や垂仁(すいにん)天皇諡号(しごう)中のイリヒコから命名)ともいわれ、日本の最初の王朝とみる論者が多い。その性格については、この王朝をこの地に自生したものとみるか、他地域からこの地に進出してきたものとみるか意見は分かれる。

(2)16代 仁徳天皇 (*) (にんとく)の皇統たる征服王朝

  • (2)仁徳王朝は、応神王朝、河内(かわち)王朝、ワケ王朝(応神系の尊号にワケが多い)ともよばれるが、この王朝も九州などの外から侵入してきた征服王朝とみるか、それとも河内を基盤に発生し、大和に進出した新王朝とみるか、あるいは河内においてヤマト王権崇神王朝)と連合政権を構成していた一つの王統(王家)とみるか意見は分かれる。

(3)26代 継体天皇 (*) (けいたい)の皇統たる統一王朝

  • (3)継体王朝は、越前(えちぜん)(福井県)もしくは近江(おうみ)(滋賀県)、あるいは摂津(大阪府兵庫県)から大和に入ってきた新王朝とみる見解が有力ではあるが、『古事記』『日本書紀*』には「誉田(ほんだ)天皇応神天皇〉五世の孫」とあり、『上宮記(じょうぐうき)』逸文(『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』所引)には、詳細な系譜関係が記されているので、まったく先王朝と血縁関係のない一地方豪族とみるかは議論の出るところである。