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つれづれなるままに日暮らし

仁徳天皇11年10月

仁徳天皇11年10月 (*)

第16代 仁徳天皇
www.geocities.jp/wakokukeisei/nintoku.html
398年 武内宿禰と甘美内宿禰が探湯(応神9年4月). 399年 仁徳を百舌鳥野陵に葬る(仁徳87年−60). −−−−−−−−− 400年 履中紀元年(太歳庚子). 400年 剣池、軽池、鹿垣池、厩坂池を作る(応神11年10月). 401年 平群木莵宿禰、蘇賀満智 ...

歴代天皇データ(西暦・元号),Summary of all the successive Emperors of ...
https://kyotofukoh.jp/emperors.html
孝元天皇57年11月12日-開化天皇60年4月9日 ... 子:御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいにえのみこと、第10代・崇神天皇)、御真津比売命(みまつひめのみこと)、彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと) .... 第16代 仁徳(にんとく)天皇 257-399 在位313-399.

難波高津宮(なにわのたかつのみや)

業績
日本書紀には、次の事績が記されている。

河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。これが日本最初の大規模土木事業だったとされる。
山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北〜久世郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。
茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。
和珥池(わにのいけ、奈良市?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築造した。
灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。
紀角宿禰百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。
原文:(遣紀角宿禰於百濟、始分國郡疆場、具録郷土所出)

古事記

この天皇の御世に、大后(おほきさき)石之日売命の御名代(みなしろ)として、葛城部を定め、また太子(ひつぎのみこ)伊邪本和氣命の御名代として、壬生部を定め、また水歯別命の御名代として、蝮部(たぢひべ)を定め、また大日下王の御名代として、大日下部を定め、若日下部の御名代として、若日下部を定めたまひき。
また、

秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また

丸邇池(わこのいけ)

依網(よさみ)池を作り、また

難波の堀江を掘りて海に通はし、また

小椅江(をばしのえ)を掘り、また

墨江(すみのえ)の津を定めたまひき

十六代仁徳天皇(3)治世 @ 狗奴国私考 (*)
www.kunakoku.info/sub-07/sub-07-11.html
そのため天皇の着物や履物は破れてもそのままにし、宮殿が荒れ果ててもそのままにしていた。その後三年、気候も ... 仁徳十二年、冬、山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北〜久世郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。これで百姓は毎年豊年に ...