深作光貞 1968/09 角川書店 単行本 244ページ
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1)60年代風月堂の香りを辿って、電脳・風月堂の参考資料リストの中に、風月堂に言及しているとされる本から、これまで当ブログが読んだリストを作ってきた。そろそろ終わりだが、最後に来てこの本は結構ヘビーである。どこかを切り抜いて終わり、とすることがなかなかできない。
2) 通称マリア(といっても女性ではなく、阿部という姓からアベマリアの下半分をつけたのだという)が仲間と共同で出したポスターなどを売る店イルミナシオンも順調だという(以下略) p130「新宿族の生態」
3)これは伝説のフリージャズの天才、アルトサックス奏者・阿部薫のことらしい。このことについては別記事にメモした。前後して面白いくだりがある。
4)みずから「現象野郎」などと名乗っている宮井陸郎は、ユニットプロダクションを主宰し、フーテンを集めてアングラ・サイケデリックショーを催しながら、マスコミへの進出を企てている。p130 同上
5)これは、Oshoサニヤシン、スワミ・アナンド・シャンタンのことである。私は、彼の過去のことなどなんの頓着もなく、1977年にインド・プーナで彼に会った。それから十数年の付き合いがあったが、彼は90年代には日本から姿を消した。
6)再登場したのは00年代の半ばになってからだろう。それ以後の活動は、それぞれのSNSにも登録してあるので、各人ご承知のとおり。またまた前後して、次のようなくだりもある。
7)「赤烏部族」という一派は、インドのヨガをとりいれた奇妙な新聞を一万部刷ったところ、物珍しさも手伝ってけっこう売れたともいう。p130 同上
8)著者は1925年生まれ(現在ご生存なら89歳)の文学者なれば、その表現にやや不正確なところがないわけではない。まぁしかし、1968年の段階において、キチンとした単行本にこのような記述が残されているのは貴重である。
9)さて、そもそもが新宿風月堂追っかけの途中であれば、それに関連する部分もメモしておこう。
10)新宿の喫茶店風月堂には常時3、40名の外人の若者たちが出入りしている。女性は、多い時期で10人ぐらいもいようか。しかしなぜ、よその店ではなく、みんな風月堂に集まるのであろうか?
外人のヒッピーやヒッチハイカーたちに接してみて、「なるほど」と思った。この店が、ネットの中にあるからにほかならない。ここに来ると、必ず同じような仲間たちがいて、着いたばかりの者にいろいろ教えてくれる。
宿舎は、新宿4丁目の横町のホテルにゆけば、一泊600円で泊まれるとか、もっと安くあげたければ、だれだれが六畳一間を月7000円で借りているから、そこに割り込ませてもらえば、月3500円でやれる、それに飯ならこうしたらいい。
金がなくなったならば、色チョークで歩道の上に絵を描け、日本人たちは外人を珍しがって、おいてある帽子の中に金を入れてくれ、一時間で2,3000円ぐらいになる、ただし、絵は銀座か渋谷で描くこと、地元の新宿ではやるなよ、それが新宿への仁義と礼儀だ、などといったことである。そうしたさいには、彼らのあいだに、連帯感がそれは奇妙なほどに発揮されるのである。
彼らは、みな20歳前後の外人で、アメリカ人、フランス人、ドイツ人など、国籍は多様だが、彼らに国籍意識は少ない。ヒッピーやヴァガボンドの同族意識で、助け合っている。p132 同上
11)この本は、そもそも新宿という街のできる由来から書きき起こしている。そして、「考現学」の名前に恥じず、多方面から多角的に現代(1968年当時)の新宿という街の現象を分析している。2014年の今となっては、すでに「考古学」に属する部類であろうか。貴重な記録ではある。
1)この本は図書館の資料というだけではなく、ネットワークを通じて他県の図書館より転送されてきたものである。延長して手元に置きたいが、そうもいかない。図書館の司書さんたちの手を煩わせてばかりでも恐縮するので、今後、そうそう早期に再読、という訳にはいかないだろう。
2)そう思って返却期限間近で、またまためくってみた。よく見ると、口絵の一番最初の画像には、確かに「セツゲリラ展」と明記してあるようだ。まずは、新宿の真ん中にこのような形で、新しくも異質な文化が芽吹き始めていたのが60年代というものであろう。
3)マスコミは一夏かけてこぞって、このフーテンの性格づけ、輪郭づくりをしようとしたが、結局は徒労に終わった。なぜならフーテンには、アメリカのビート族やヒッピー族のように、反社会的行動や既成モラルへの破壊意識などの実体が、ありそうにみえて実際はなかったからである。つまり彼らは、一種のものぐさ太郎にすぎず、内容がなにもなかったのである。もう一ついえば、あったのは現象だけだったということになる。p124「新宿族の生態」
4)著者がこのような「ソーカツ」をしてしまっているのは早計であろう。著者が学者であり、すでに中年であったことを考えると、外国暮らしの生活から、新宿の新しい芽ぶきに注目はしたものの、本当の意味での胎動を、キチンと把握するには時間がまだまだ必要だった、ということになる。
5)ところで、パラパラと読み進めていくと、また193ページあたりにポスター店の内部らしき画像がでてくる。
「イルミナシオン」の看板があり、「セツゲリラ展」のポスターが複数見える。「イルミナシオン」は1967年頃から、伝説のアルトサックス奏者フリージャズの阿部薫が参加していた店らしく、そのネーミングは、フーゲツのJUNがしたらしい(本人の弁)。セツゲリラの一期生(?)には、当ブログにもコメントをもらった川内たみさんも選ばれていたらしい。
6)川内さんは、1976年に西荻窪にできた「ホビット村」の成立の根本に関わる方だから、67年の新宿の若者のエネルギーの勃興が、見事に継続し、発展していることになる。実体がないとか、思想がないとか、さまざまに言われた当時の新宿の若者文化だが、それは単に始まったばかりだからそう見えただけで、1970年代から21世紀を超えて、今日までの系譜を見れば、それは、実体も、思想もある、文化や芸術の一大潮流の始まりだった、ということが分かる。
7)その常連たちの新陳代謝の激しさは、たとえば喫茶店風月堂だけをみても、しばらく行かないでいるとここの客の顔ぶれががらりと変わっていることでもわかる。その変わりかたにも特徴がある。
5、6月ごろから夏の終わりまで新しい顔がつぎつぎと押しよせてきて、秋になると一応定着する。それが冬になるとぼろぼろ欠けていき、新宿族になりきった者だけが冬越しする。
しかし、ふたたび春が訪れ、さらに新しい顔の波がやって来るようになると、常連は、新顔に圧倒されてその座をゆずり、おりおり顔を出すだけのOBになってしまう。こうした新陳代謝が、年々くり返されているのである。
新しい流入者としては、高校を出たての大学初年生や浪人たちが大半である。しかも知用出身の芸術・文学志望者が多い。東京っ子もときどきは来るが、いつもあっさりしていて、地方出身者のように連日すわりこんで熱っぽい話をしつづけるということはない。
そして、地方出身者の、少々芸術を手がけた者なら鼻について恥ずかしくなるようなことを得意然と口にする熱っぽさが、東京っ子たちを圧倒しているのである。p211「新宿文化論」
8)東京生まれで、パリ大学留学体験後、京都精華短大助教授だった、1925年生まれの著者、43歳の時の弁である。1967年から勃興したという新宿若者文化についてのフィールドワークとしては、わずか1年超の観察と思われるのに、ここまでの断定的な評価はいかがなものか。
9)この一冊には、当時の極めて貴重な記録が満載である。著者の考察には簡単に首肯できないが、また、このような「否定的」な態度やポーズを取りながらも、かなりな至近距離に近寄って、この新しい文化を直視している姿は、ある意味、見事である。