Google (おおひら まさよし、1910年(明治43年)3月12日 - 1980年(昭和55年)6月12日) 阿片
倪志敏「大平正芳と阿片問題」『龍谷大学経済学論集』第49巻第1号 2009年9月。
朝鮮半島取材40余年 | 取材ノート | 日本記者クラブ ...
https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/25070
夕刊社会面の記事が相次ぐカンパを誘い、筆者は韓国人被爆者の直接取材を決意して秦正流大阪編集局長に直訴。 ... 大蔵官僚だった大平さんは戦前、中国で仕事をした経験から、日本がアジアのために可能なことを最大限行うことが日本の生存と安全に ...
知っていますか、任那日本府 韓国がけっして教えない歴史
1500年前の朝鮮半島には「任那」と呼ばれる地域があった。古代日本人の居留地、交易の中心地であり、半島中南部を軍事的に押さえる要衝の地でもあったが、韓国ばかりでなく、いまや日本の学校教育でも「任那」はほとんど教えられず、長らく無視されてきた。本書は「任那」についての歴史的事実を史料をもとに明らかにする。かつて日本(倭)は新羅や百済を臣民としていた。それどころか、百済や新羅が東洋史に登場するよりも100年以上前から、倭国が半島南東地域を管理していたことは、中国の史書に記されている。高句麗・広開土王の生涯を刻んだ「広開土王碑」の碑文にも「倭、任那」の記述がある。碑文の不毛な改竄論争も最古の拓本発見で終止符が打たれた。そして記録に残るかぎり、「日本府」という名を最初に使ったのは倭人ではなく新羅王であった。ここまで明らかなのに韓国がけっして教えたくない半島の歴史―「任那」の真実がこの1冊に。
戦後この方現在まで封印されてゐたと言っていい古代朝鮮南部にあった「任那日本府」の歴史を改めて声を大にして注目するやう訴へる貴重な入門概説書であります。筆者の主張は、封印されてゐた古代朝鮮の任那日本府を左翼や韓国のバイアスのかかった主張ではなく、正当な学問研究の成果によって評価、共有する全うな在り方の希求であります。本書を読んで私が先づ思ったのは、大和朝廷による日本国土の統一が四世紀の後半になされたといふ教科書的な理解を中学、高校の歴史で習ひましたが、その基になった具体的な事実については殆ど触れてゐなかったなあといふ思ひが蘇って来ます。広開土王碑に見られる倭の朝鮮進出の史実から日本国内の統一が推測されるといふ論理なのですが、本書では、その裏付けを日本書紀等の史書から具体的な史実に言及してゐるのには驚きました。日本における応神天皇から仁徳天皇にかけての時期に、高句麗の使者がもたらした威嚇、降伏勧告の文書があり、日本側はその文書を破り捨てたといふ事件が述べられ、また、十五年にわたった高句麗との戦ひも和議が成り立ち、そのための使節が日本を訪れ、宴の経緯が語られるのです。その後の高句麗、新羅、百済、任那による半島経営の推移状況も細かに紹介されます。既に研究され、貴重な学問成果となってゐる筈の任那日本府であったのに何故か知らされなくなった作為の印象さへ強く持ちました。更に、本書では、韓国南部で発見された祭祀遺跡についても触れて居り、日本・倭の海上祭祀であると考へられる事も堂々と主張してゐます。それから、任那日本府の経営の実態についてもある程度理解する事が出来ました。この地域は、中央集権化されてゐない「クニ」段階の地域で百済、新羅のやうな成長する国家に統合されるか、日本の下で新しい国家形態をつくって行くかといふ国家発展段階であった事です。新羅、百済は日本の国威には一目置いてゐたので、日本の任那諸国経営を認められてゐたわけですが、十分統合し、統一の実を上げられずに任那は衰退してしまひます。筆者は、古代朝鮮における日本の歩みに光をあててくれた事は、とても意味のある事であり、その高潔な志を本当に多として行きたい。