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第41代 持統天皇

Google (*) 年表マニア , 日本書紀 - 歴代天皇事典 Weblio辞書

645 〜 703.1.13 58歳 , 663年(663.8)白村江(はくすきのえ・「はくそんこう」ともいう)の戦い

持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年)-大宝2年12月22日(703年1月13日))は、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日)-持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は?野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたとされる。

持統天皇の称制と即位

天武天皇は、2年3ヶ月にわたり、皇族・臣下をたびたび列席させる一連の葬礼を経て葬られた。このとき皇太子が官人を率いるという形が見られ、草壁皇子皇位継承者として印象付ける意図があったともされる。

ところが、689年4月に草壁皇子が病気により他界したため、皇位継承の計画を変更しなければならなくなった。?野讃良は草壁皇子の子(つまり?野讃良の孫にあたる)軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承を望むが、軽皇子は幼く(当時7才)当面は皇太子に立てることもはばかられた。こうした理由から?野讃良は自ら天皇に即位することにした。

その即位の前年に、前代から編さん事業が続いていた飛鳥浄御原令を制定、施行した。

持統天皇の即位の儀式の概略は、天武天皇の葬礼とともに、『日本書紀』にかなり具体的に記されている。ただし以前の儀式が詳しく記されていないので正確なところは不明だが、盾、矛を立てた例は前にもあり、天つ神の寿詞を読み上げるというのは初見である。また前代にみられた群臣の協議・推戴はなかった。全体に古式を踏襲したものとみなす見解もあるが、新しい形式の登場に天皇の権威の上昇を見る学者が多い。

即位の後、天皇は大規模な人事交代を行い、高市皇子太政大臣に、多治比島を右大臣に任命した。ついに一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治は、ここで修正されることになった。

持統天皇の治世

天武天皇の政策の継承

持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ、完成させるもので、飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな二本柱である。

新しい京の建設は天武天皇の念願であり、既に着手されていたとも、持統天皇が開始したとも言われる。未着手とする説では、その理由が民の労役負担を避けるためだったと説かれるので、後述の伊勢行幸ともども、天武の治世と微妙に異なる志向がある。

また、官人層に武備・武芸を奨励して、天武天皇の政策を忠実に引き継いだ。墓記を提出させたのは、天武天皇の歴史編さん事業を引き継ぐものであった。

民政においては、戸籍を作成した。庚寅の造籍という。687年7月には、685年より前の負債の利息を免除した。奴婢(ぬひ)身分の整とんを試み、百姓・奴婢に指定の色の衣服を着るよう命じた。

こうした律令国家建設・整備政策と同時に持統天皇が腐心したのは、天武の権威を自らに移し借りることであったようである。天武天皇がカリスマ的権威を一身に体現し、個々の皇族・臣下の懐柔や支持を必要としなかったのとは異なっている。

持統天皇は、柿本人麻呂天皇を賛仰する歌を作らせた。人麻呂は官位こそ低かったものの、持統天皇から個人的庇護を受けたらしく、彼女が死ぬまで「宮廷詩人」として天皇とその力を讃える歌を作り続け、その後は地方官僚に転じた。

天武との違いで特徴的なのは、頻繁な吉野行幸である。夫との思い出の地を訪れるというだけでなく、天武天皇の権威を意識させ、その権威を借りる意図があったのではないかと言われる。他に伊勢に一度、紀伊に一度の行幸を記録する。『万葉集』の記述から近江に一度の行幸も推定できる。伊勢行幸では、農事の妨げになるという中納言三輪高市麻呂のかん言を押し切った。この行幸には続く藤原京の造営に地方豪族層を協力させる意図が指摘される。

持統天皇は、天武天皇が生前に皇后(持統)の病気平癒を祈願して造営を始めた大和国薬師寺を完成させ、勅願寺とした。

外交政策

外交では前代から引き続き新羅と通交し、唐とは公的な関係を持たなかった。日本書紀の持統4年(690年)の項に以下の主旨の記述がある持統天皇は、筑後国上陽?郡(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して、「百済救援の役でその方は唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時その方は富杼らに『私を奴隷に売り、その金で帰朝し奏上してほしい』といった。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、その方はひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。自分は、その方が朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ。」と詔して、土地などの褒美を与えた。

新羅に対しては対等の関係を認めず、向こうから朝貢するという関係を強いたが、新羅は唐との対抗関係からその条件をのんで関係を結んだようである。日本からは新羅に学問僧など留学生が派遣された。

文武天皇への譲位

持統天皇の統治期間の大部分、高市皇子太政大臣についていた。高市は母の身分が低かったが、壬申の乱での功績が著しく、政務にあたっても信望を集めていたと推察される。公式に皇太子であったか、そうでなくとも有力候補と擬せられていたのではないかと説かれる。

その高市皇子持統天皇10年7月10日に死んだ。『懐風藻』によれば、このとき持統天皇の後をどうするかが問題になり、皇族・臣下が集まって話し合い、葛野王の発言が決め手になって697年2月に軽皇子が皇太子になった。

持統天皇は8月1日に15才の軽皇子に譲位した。文武天皇である。日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇上皇)になった。

譲位後の持統上皇

譲位した後も、持統上皇文武天皇と並び座して政務を執った。文武天皇時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行だが、これにも持統天皇の意思が関わっていたと考えられる。しかし、壬申の功臣に代わって藤原不比等ら中国文化に傾倒した若い人材が台頭し、持統期に影が薄かった刑部親王忍壁皇子)が再登場したことに、変化を見る学者もいる。

持統天皇大宝元年(701年)にしばらく絶っていた吉野行きを行った。翌年には三河まで足を伸ばす長旅に出て、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらった。

崩御

大宝2年(702年)の12月13日に病を発し、22日に崩御した。1年間のもがりの後、火葬されて天武天皇の墓に合葬された。天皇の火葬はこれが初の例であった。

藤原京*

663年(663.8)白村江(はくすきのえ・「はくそんこう」ともいう)の戦いで倭国軍と百済軍は唐・新羅連合軍の大攻勢を受けて大敗北すると、大海人皇子らとともに大和へ帰国した。

続日本紀朝日新聞社本)
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国立国会図書館デジタルコレクション - 国史大系. 第2巻 続日本紀
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書誌情報. 詳細レコード表示にする. 永続的識別子: info:ndljp/pid/991092; タイトル: 国史大系. 第2巻 続日本紀; 著者: 経済雑誌社 編; 出版者: 経済雑誌社; 出版年月日: 1897-1901; 請求記号: 210.08-Ko548-Kk; 書誌ID(NDL-OPACへのリンク) ...

3.続日本紀 - 歴史と物語:国立公文書館
www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/.../03.html
日本書紀』に次いで編修された勅撰国史桓武天皇延暦13年(794)から16年(797)にかけて、3回に分け、全40巻が完成しました。撰者は藤原継縄(ふじわらのつぐただ)・菅原真道(すがわらのまみち)ほか。『日本書紀』のあとを受けて、文武天皇即位の ...

第40代 天武天皇 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/天武天皇
天武天皇(てんむてんのう、生年不明 - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。
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