「空海・遍照金剛阿闍梨」歴典・年表 | 吉田 恵一郎 |本 | 通販 | Amazon
天皇第50代、51代、52代、53代、54代、60代と繋がりの真言密教創立者である空海について、唐国の史料を中心に空海歴典およびその年表を読み易く記載したものである。
◎空海の生(しょう)国(ごく)・讃(さぬ)岐(くに)(きの)国
此(こ)処(こ)、讃岐国(香川県)には古墳塚が百一基あり、此の古墳塚の数は、弥生(やよい)時代より国の始まりである大和国・最古の「中(なが)曽(ぞう)司(しの)宮(みや)」古墳塚十三基、総て殉(じゅん)葬(そう)埋(まい)葬(そう)(日頃天皇のためお世話する人が、死者に従って死ぬ〝殉死〟)(奈良県)及び難波「高(こう)津(づの)宮(みや)時代」此れより副葬埋葬(死者の遺物、刀・装飾品などを死体にそえて埋める)(大阪府)続いて、飛鳥(あすか)時代・藤原京時代・平城京時代(奈良県)・平安京時代(京都府)、此れらの天皇の陵の数を総て合わせないと、讃岐国の古墳塚の数には敵(かな)わない。
即ち、此の讃岐国の最古の古墳塚は総て空海の祖先の古墳塚で、此れらの古墳の主は、弥生時代より讃岐国を拠(きょ)点(てん)とし、阿波国・及び土佐国・伊予国一円を支配する「佐(さ)伯(えき)王朝」で、空海は、その王朝の子孫である。
また空海は、大陸唐国・長安(西安)へ二度渡航しているが、第一回目は単独渡航であるがため、我が日本国にはその記述がないが、しかし、唐国での在(ざい)籍(せき)は七年間で、此の七年間空海が唐国・長安で残した足跡は、密教第六代・恵(けい)果(か)阿(あ)闍(じゃ)梨(り)及び、唐国の皇帝である「徳宗李.皇帝」と空海との繋(つな)がり(関係)は、空海が第一回目の単独渡航での時で、此の後空海が偉(い)大(だい)な歴史を残した足跡は総て此の第一回目の単独渡航があればこそであり、空海にとって此の単独渡航で唐国で得た唐国の文化、その文化を把(は)握(あく)した年表が、此の第一回目の単独渡航時の年表である。
更(さら)に、空海単独五年目には恵果阿闍梨の一番弟子となり、それがため恵果阿闍梨は空海を、恵果の後継者と定めた恵果は、空海をもう日(ひの)本(もとの)国(くに)には帰さないと、空海を説き伏せたのが空海第一回目、単独渡航時で、正に、空海の貴(き)重(ちょう)な足跡の年表である。
空海の父・田(た)公(ぎみ)は讃岐国・屏(びょう)風(ぶ)ヶ(が)浦(うら)であるが、空海の母(玉寄姫)は、大和国(奈良県)から此の讃岐国へお輿(こし)入(いれ)(嫁入)にこられており、空海もまた十五歳の砌(みぎり)、母方の実家の家(いえ)柄(がら)(格(かく)式(しき))にて大和国の天皇直轄の(明(みょう)経(きょう)道(どう)学(がく)徒(と))へ入学させられる。
此の学徒に入学するには、従(じゅ)五位以上の家柄が条件であるがため、遣唐大使は総て此の家柄であり、また、この学徒を卒業しないと遣唐大使の資(し)格(かく)が得られない。
空海は、此の明経道学徒を優秀な成績で卒業しており、その裏付けは、空海の母である阿(あ)刀(とう)玉寄姫の父・阿刀宿禰氏は、此の明経道学徒の学長(現今・校長)の家柄で、行く行く空海を此の明経道学徒の学長にする試(こころ)みであったことがうかがえる。
〈追伸〉
遍照金剛阿闍梨(空海)が、「世界の国々の中で初の即身成仏」を達成した空海に、第六十代・醍(だい)醐(ご)天皇が自ら空海に諡の名称を授けた名称が『弘法大師』、以後弘法大師の名称である。
現今、此の佐伯空海の祖先、即ち、佐伯王朝より佐伯家を平成の今日まで継承している末孫の御方が此の讃岐国(香川県)に存在しておられ、その裏付けとして『戸籍抄本』一通を著者はいただきました。
さらに、此の戸籍抄本を著者の空海歴典・年表の記述に記載してもよいという承(しょう)諾(だく)も合わせていただき、それゆえ此処にその裏付けとして、戸籍抄本一通を添えるものである。
なお著者は、此れらの空海歴典及びその年表を出来るかぎり史実に希望し書き綴るものであるが、しかし、此の空海歴典は特に唐国の史料を重視しその年表を参照したものが多大であり、此の歴典年表に誤りがあったその誤りの分著者は弘法大師様よりきついおしかりも覚悟の上で、書き綴るものである