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oumijingu.org 天智天皇は、その10年(671)4月25日に漏刻を作り、大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始されました。 

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近江に置かれた都:
(1)    高穴穂宮    (たかあなほのみや)    :景行天皇成務天皇仲哀天皇
(2)    大津宮     (おおつのみや)    :天智天皇
(3)    紫香楽宮    (しがらきのみや)    :聖武天皇
(4)    禾津頓宮    (あわずのとんぐう)    :聖武天皇行幸時の仮の都
(5)    保良宮    (ほらのみや)    :淳仁天皇 

6~7世紀頃の大陸(中国・朝鮮)と日本,大化の改新の背景:        

6世紀頃には大和朝廷が日本を支配していたと考えられていますが,中国からは遣隋使などにより,また朝鮮からは,百済系(漢(あや)氏など)・新羅系(秦氏など)・高句麗系の渡来人により,大陸の進んだ高い技術や文化を吸収していました。その結果,蘇我氏など一部の渡来系豪族は,朝廷の中で大きな権力を発揮するようになり,朝廷の力はあまり強くなかったといっても過言ではありません。

一方,大陸では,それらの国々同士が抗争(戦争)を繰り返しており,それが日本国内の渡来人にも反映し,日本の古代国家確立の基礎にもなった大化の改新などに影響を与えたと考えられています。 

<歴史的な流れ>
(1)    645年に中臣鎌足中大兄皇子は,新羅系渡来人である高向玄理(たかむこのくろまろ)・僧旻(みん)と協力して,蘇我入鹿蝦夷を倒し,それまでの蘇我氏一族による専制にストップをかけました。
(→これを大化改新,正確には「乙巳の変」(いっしのへん)といいます。)
 <注>高向玄理・僧旻は,どちらも元々は百済系の漢人から出ていますが,中国・隋へ留学し,その帰りに,新羅に長期滞在して帰国しており,それが新羅系とされる所以です。 
(2)    その後数年して,伝統的に強かった百済系氏族が力を盛り返して来て,百済との連携が強化されます。しかし,朝鮮では百済新羅から攻められ,日本に救援を求めてきました。
(3)    そのため,中大兄皇子らは百済の救援を目的として出兵し,唐・新羅連合軍との「白村江での戦い」に挑みますが,大敗を喫してしまいます(663年)。しかし,その帰りには百済から農民2,000余人を引き連れて帰国しました。

(4)    667年,中大兄皇子は諸般の事情により,飛鳥宮から大津(錦織)に都を移し,668年には天智天皇として即位しました。    
<大津宮への遷都の理由>
(a)    近江には,すでに4~5世紀頃から特に百済系の高い技術をもった渡来人が多数来ていたこと,    
(b)    近江朝廷に,百済の渡来人を優秀な官僚として採用できたこと(鬼室集斯ら),   
(c)    当時,新羅や唐と敵対関係にあった高句麗との連携が考えられたこと,    
(琵琶湖から若狭湾日本海を経由して,高句麗へ行くコースが考えられた)    
(d)    百済系渡来人(今で言えば財界?)からの強い誘いが有ったと考えられること,        
(5)    遷都から5年後(672年),天智天皇の弟とされる大海人皇子新羅系氏族を中心とした「壬申の乱」が勃発。この戦いに敗れた百済系の天智天皇の子・大友皇子は自害し,大津宮は滅びました。    
(6)    673年,勝利した弟・大海人皇子は奈良の飛鳥浄御原で天武天皇として即位しました。    
<天武天皇外交政策>
(a)    遣唐使を廃止        
(b)    遣新羅使を10回派遣 (逆には24回も)            
(7)    685年,天武天皇の死後,天智天皇の娘であり,皇后の持統天皇になると,新羅との間は急速に冷却し,またもとの百済系氏族中心に戻ります。これを如実に示しているのが,天武天皇の子として次の皇位を継ぐ可能性のあった大津皇子を処刑していることです。

参考 斉藤国治『古代の時刻制度』(雄山閣出版
   橋本万平『日本の時刻制度』(塙書房
   飛鳥資料館『飛鳥の水時計