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つれづれなるままに日暮らし

八軒家かいわいマガジン

新版【かいわいの時】承和十一年(844)十月九日:鴻臚館を摂津国府とする(『続日本後紀』)。
日本書紀』には、6、7世紀に難波にあった政府の施設として、外国使節を迎えるための迎賓館が何度もあらわれます。順に列挙すると、「難波館」(512~692)、「難波大郡」(560~652)、「難波小郡」(583~672)、「難波高麗館」(608新館増築)、「三韓館」(630)、「難波郡」(642~643)、「難波百済客館堂」(643)。このうち、「難波高麗館」「三韓館」「難波百済客館堂」 は、「難波館」 と同一とみられています。これらの(あるいは、一つの)難波の迎賓館が「鴻臚館」と呼ばれるようになったのは、おそらく平安遷都の後であろうとされています。
それでは、この「鴻臚館」はどこにあったのでしょうか。主な説は次の4つです(1~3は西本昌弘『古代難波津の位置をめぐる研究史(1)』2017による)。
1)関祖衡・並川誠所『摂津志』1735-36
三韓館 在安国寺坂上(以上、摂津国之三、東生郡)。
2)秋里籬島『摂津名所図会 3』1796-98
三韓館 同所〔今の真田山〕の北一町ばかりに旧跡あり。字を唐居殿といふ。
3)暁鐘成『摂津名所図会大成』1855頃
難波大郡・小郡 大郡は今の上町、小郡は天満の郷より長柄本庄へかけての名なり。……今玉造に国分町といへる。是全く国府町の誤なるべし。国分といふべき由縁此傍辺に有べからず。然れバ此地は其始ハ鴻臚館の旧趾なり。古歌に詠る国府亘*も此近辺をいふなるべし。*国府亘(こふのわたり)は、夫木集の次の歌によります。都人ありやと問バ津国のこふのわたりに佗とこたへよ 法性寺関白(藤原忠通)。「国府」は古代では「こぷ」ですが、平安後期には「こふ」と音韻変化していたようです。
4)古市晃「難波宮と難波津」2010
難波館の所在地を示す直接の証拠はない。しかし、新羅使に関する施設の存在によって名付けられたと思われる「新羅江庄」の名称が堀江の北岸に見えることから(「東大寺新羅江庄文書出納日記」略)、堀江周辺に置かれたことは確実であろう。
(結論)近年の研究はすべて「難波津」との関連で言及されており、「難波津」の位置が確定されていないのと同様、「鴻臚館」についても意見の一致を見ていません。難波津周辺にあったという説に従えば、1)がわずかに不利という程度でしょうか。
国家的港津である難波津の所在については、三津寺にあったとする千田(1974)説、高麗橋付近にあったとする日下(1985)説、内湾(河内湖側)にあったとする木原(1996)説の3説が現在も競合しています。これらの難波津の位置に加えて、迎賓館から難波宮に入る道程(行列)を考慮にいれれば、宮の北にあってきつい坂を上って大極殿の裏から入る堀江周辺は考えにくく、坂を下って朱雀大路から朱雀門につながる「唐居殿」が有利です(図2参照)。

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大阪平野を南北に伸びる上町台地とその周辺部を対象にして、地形学と地質学、古植物学などの自. 然科学の手法に、考古学 ... 台地東斜面 北から井戸曲輪谷、森ノ宮谷、玉造谷、清水谷とその支谷である上町谷、味原谷、五. 合谷、細工谷、北  

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