altgolddesu’s blog

つれづれなるままに日暮らし

駅家一覧

Google (*)

以下に駅馬について、分国名/駅名(設置郡名)・備考(駅馬数等)・古代山陽道駅家想定地(推定地関連情報)の順に列挙する。

山城(1駅)
山崎(乙訓郡) 駅馬数20疋

摂津(5駅)
大原(島上郡神内・梶原南地区) 711年設置 摂津国島上郡大原駅 大阪府三島郡島本町桜井一丁目(桜井駅跡史跡桜井駅跡史跡公園
殖村(島下郡) 711年設置
草野(かやの、豊島郡) 駅馬数13疋 箕面市萱野地区
葦屋(菟原郡) 12疋 深江北町遺跡
須磨(八部郡) 13疋

播磨(9駅、廃駅2駅)
明石(明石郡) 駅馬数30疋[6] 兵庫県明石市
邑美(廃止)
賀古(かこ、賀古郡) 40疋[7] 加古川市野口町野口駅ケ池(うまやがいけ)
佐突(廃止)
草上(飾磨郡) 30疋[8] 姫路市今宿
大市(揖保郡) 20疋[9] 姫路市太市中
布勢(揖保郡) 20疋[10] たつの市揖西町小犬丸
高田(赤穂郡) 20疋[11]
野磨(やま、赤穂郡) 20疋[12] 赤穂郡上郡町落地(おろち)飯坂遺跡
越部(揖保郡) 5疋[13] (美作路 - 播磨国府と美作国府を結ぶ支路)
中川(佐用郡) 5疋[14] (美作路 - 播磨国府と美作国府を結ぶ支路)

備前(4駅)
坂長(和気郡) 駅馬数20疋 岡山県備前市吉永町
珂磨(磐梨郡) 20疋 (788年に藤野駅を廃止して置かれた)
高月(赤坂郡) 20疋 赤磐市馬屋 高月駅家推定地(岡山県赤磐市) (*)
津高(津高郡) 14疋 岡山市一宮付近

備中(4駅)
津峴(都宇郡) 駅馬数20疋 倉敷市矢部
川邊(下道郡) 20疋 倉敷市真備町川辺
小田(小田郡) 20疋 小田郡矢掛町小田
後月(後月郡) 20疋 井原市七日市町

備後(5駅、『延喜式』では安那、品治、葦田の3駅となっている)
安那(やすな、安那郡) 駅馬数20疋 広島県福山市(旧深安郡神辺町)御領
品治(ほんじ、品治郡) 20疋 福山市駅家町
葦田(看度?、御調郡) 20疋

安芸(13駅)
真良(しんら、沼田郡) 駅馬数20疋 三原市高坂町真良
梨葉(なしわ、沼田郡) 20疋 三原市本郷町
都宇・津宇(つう、沼田郡) 20疋(『倭名類聚抄』に「沼田七郷」として今有・沼田・舩木・安直・真良・梨葉・津宇)
鹿附(かむつき、沼田郡) 20疋
木綿(ゆう、賀茂郡) 20疋 東広島市西条地区
大山(賀茂郡) 20疋 東広島市八本松地区
荒山(安芸郡) 20疋 広島市安芸区中野東地区
安芸(安芸郡) 20疋 安芸郡府中町城ケ丘 下岡田遺跡
伴部(佐伯郡) 20疋 広島市安佐南区伴地区
大町(佐伯郡) 20疋 広島市佐伯区利松地区周辺
種篦(へら、佐伯郡) 20疋 廿日市市下平良地区
濃唹(のお・おおの、佐伯郡) 20疋 廿日市市大野高畑地区(『万葉集』高庭馬家(たかばのうまや)跡)
遠管(おくだ、佐伯郡) 20疋 大竹市

周防(8駅、廃駅1駅)
石国(いわくに、玖珂郡) 駅馬数20疋 山口県岩国市関戸付近
野口(玖珂郡) 20疋 岩国市玖珂町野口
周防(光市小周防、熊毛郡熊毛町三丘・高水・勝間付近の諸説) 20疋
生屋(いくのや、都濃郡) 20疋 (現生野屋)生野郷
平野(都濃郡) 20疋 旧新南陽市西部に平野郷が存在した
大前(おおさき、889年に廃止) 防府市
勝間(かつま、佐波郡) 20疋 防府市勝間
八千(やち、吉敷郡) 20疋 山口市鋳銭司矢地
賀孕(かがほ、吉敷郡) 20疋 山口市嘉川(賀宝とも)山口市賀川

長門(5駅)
阿潭(あたみ、厚狭郡) 駅馬数20疋 宇部市吉見 
厚狭(厚狭郡) 20疋 山陽小野田市
埴生(はぶ、厚狭郡) 20疋 山陽小野田市埴生
宅賀(たか、豊浦郡) 20疋(室賀とも)下関市小月
臨門(りんもん、豊浦郡) 20疋(外国の賓客を接待する役割も兼ねており、日本書紀には穴門館(後に臨海館)と記載あり)下関市前田付近

山陽道 (*)

概要
古代の山陽道は、大和朝廷と九州の太宰府を結ぶ幹線道として最も重要視され、畿内を起点に放射状に延びる七道駅路(大路、中路、小路)のなかで唯一の大路であった[3]。

古代日本では、太陽の出没方向に因んで東西を日縦(ひたて)、それに直行する南北方向を日横(ひよこ)と呼んでいた。そして山稜の南斜面(上古・中古中国語で「陽」)を影面(かげとも)、北斜面(上古・中古中国語で「陰」)を背面(そとも)と呼び、共に日縦である本州西部南岸の街道を「影面の道」(漢訳すると「山陽道」)、本州西部北岸の街道を「背面の道」(漢訳すると「山陰道」)とも呼ぶようになったとされる。

大同2年(807年)の改制までは、播磨以西の山陽道には51の駅家があり(駅間距離13里程度)、それぞれに25疋の駅馬が置かれていた。この改制以降は、新任国司の赴任も海路を使うようになるなど駅路の利用は衰微していった。

延喜式』(927年に編纂)には、駅路(七道)ごとに各駅名が記載されており、これを元に当時の駅路を大まかに復元することができる。延喜式兵部省諸国駅伝馬条による、駅家・駅路関係の史料からは、山城国山崎駅から筑前国の久爾駅まで58駅を数えていたことが伺える。なお奈良時代には、平城京から木津川沿いを北上し、河内国交野郡(現、枚方市・交野市)の楠葉駅を経て淀川対岸の摂津国島上郡(現、高槻市島本町)の大原駅を経由する路線であった。その後平安時代には、平安京から南下して山城国乙訓郡(現、大山崎町長岡京市)の山崎駅から高槻を経て、西へと向かう路線となったようである。

古代の山陽道の場合、原則30里(当時の一里は約540メートルで、30里は約16キロ)ごとに駅家(うまや)を設けていた[3]。道幅は約6メートルから9メートルで、その行程は直線的に短絡するよう計画されており、各国の国府を効率良く結んでいた。本道から外れた美作国へは、播磨国草上駅から西北に分岐した道路(美作路)が伸びていた。 山陽道が重視されたのは外交使節の入京路に当たっていたからで、駅家は瓦葺きで白壁にしていたので、天平元年(729年)そのための財政措置が行われた。

当初はこの陸上交通路によって地方官である国司が往復し、各地域からの税である庸・調を運ぶすることを原則としていた。しかし大量の物資を輸送するのは水運を利用する方が効率的であり、次第に瀬戸内海を経由する水運の比重が高まっていった。やがて律令制の納税、軍制の形骸化に呼応するかのように、駅伝制は急速な衰退をみせ、10世紀後期または11世紀初頭には、名実共に駅伝制も駅路も廃絶した。

実際の古代山陽道の路線趾が、発掘調査において確認された事例は極めて少なく、高槻市郡家(ぐんげ)川西遺跡(幅8メートル)、岡山県備中国分尼寺跡(幅7メートル)、兵庫県たつの市小犬丸(こいぬまる)遺跡、上郡町落地(おろち)遺跡など数例に留まる。広島県府中市での発掘調査では、市内3カ所で古代山陽道の遺構が出土し、道幅が10メートルであったことや[4]、600m離れた備後国府跡への分岐点も確認されている[5]。