岡山藩について
岡山藩:外様 31.5万石 Wikipedia
藩主家の変遷:岡山城を築城したのは宇喜多秀家である。宇喜多氏は岡山城を居城にして戦国大名として成長し、豊臣家五大老を務めた。しかし慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、西軍方の主力となった秀家は改易となり、西軍から寝返り勝敗の要となった小早川秀秋が入封し備前・美作の51万石を所領とした。ただ慶長7年10月18日(1602年12月1日)、秀秋は無嗣子で没したため小早川家は廃絶となった。
慶長8年(1603年)、姫路藩主・池田輝政の次男・忠継が28万石で岡山に入封して、江戸期の大名である池田家の治世が始まる。寛永9年(1632年)、池田光政が鳥取より31万5000石で岡山に入封し、以後光政の家系(池田家宗家)が幕末維新まで治めた。
居城:岡山県岡山市 岡山城(烏城、金烏城) Wikipedia
城郭構造:梯郭式平山城
天守構造 :複合式望楼型4重6階(1597年築) (鉄筋コンクリート造外観復元・1966年)
築城主 :上神高直?
築城年 :1346年 - 1369年(正平年間)
主な城主 :宇喜多氏、小早川氏、池田氏
遺構 :櫓、石垣、堀
指定文化財 :国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓) 国の史跡
再建造物 :天守・門・塀
幕末藩主:池田茂政(もちまさ 当時28歳) ←15代将軍徳川慶喜の実弟
戊辰戦争への対応:慶応4年(1868年)3月15日、茂政は徳川追討に難色を示し病気を理由に隠居して、備中鴨方藩主池田政詮(後に章政)に相続させた。章政は積極的に新政府軍に参加。備中松山藩・姫路藩の追討はじめ、関東、東北、箱舘戦へ出軍して活躍した。戊辰軍功賞典2万石、箱舘軍功賞典1万石。
665年 第2次使節が来朝 254人の使節666年ごろから 新羅が唐に抵抗、
<1>駅馬と伝馬
大化二年(646年)の詔勅に「初めて京師を修め、畿内の国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置く」(『日本書紀』)とあって、大化の改新に際して、政治・軍事と共に交通制度の全国的整備がなされたことが知られる。
645年 大化改新
663年 韓国の白村江(「ハクソンコウ」又は「はくすきのえ」)で、日本と百済が、新羅と唐の連合軍に大敗した。
663年 日本に亡命した百済人によって、九州に防衛のための大野城、太宰府に水城などを築いた。
664年 敗戦の兵、百済の人々の日本上陸、朝鮮半島の百済が、日本に移住?した形になった。
朝廷が「甲子(かっし)の宣」を発する。
百済の官位がそのまま日本で使えた。
664年 唐の百済占領軍の使者が来朝 半年居座る。
665年 第2次使節が来朝 254人の使節
666年ごろから 新羅が唐に抵抗、抗争を開始した。
667年 近江遷都
ようやく政治が安定、対馬・瀬戸内地区に、朝鮮式山城を作り、唐の来襲に備える。
668年 唐 倭国討伐の軍船修理
668年 高句麗滅亡
669年 唐の使節 2000人以上来朝
671年 天智天皇崩御
672年 壬申の乱
大宝元年(701年)の大宝律令(及びその改良版の養老律令)の厩牧令(くもくりょう)では、
駅馬の設置は大路二十疋、中路十疋、小路五疋、駅の設置は大路30里毎に一駅が原則であった。
山陽道の場合、九州につながる大路として、原則30里(卅里)(16km)ごとに駅家(うまや)を設けていた。
令制の「1里」は534m程度の距離
当時、目安は、徒歩で1日50里、荷馬車で1日30里移動できることから、街道に30里ごとの駅家の設置を行った。
<2>山陽道の駅家
『延喜式』の諸国駅伝馬条は、駅家・駅路関係の史料を掲載している。
山陽道
<播磨国駅馬>明石30疋。賀古40疋。草上30疋。大市。布勢。
高田。野磨各20疋。越部。中川各5疋。
<備前国駅馬>坂長。珂磨。高月各20疋。津高14疋。
<備中国駅馬>。川邊。小田。後月各20疋。
<備後国駅馬>安那。品治。葦田各20疋。 となっている。
<3>古代山陽道駅家の装備
古代山陽道は、唯一の大路であったので、馬20疋、駅の設置は30里毎に一駅が原則であった。
また、中国、朝鮮の使節の接待、宿泊もあるため、各駅家を白壁で囲うなど整備を図った。
「兵庫県竜野市の布勢駅家の風景」にリンク
(そのほかに、乗具及び蓑、笠等は、馬の数に応じて設置することとした。)
<4>都の役人になったつもりで、一級国道「古代山陽道」を設計してみよう。
1.瀬戸内海の海岸線は江戸時代に干拓された地区も多いことから、現在の国道2号線では通行できないところもある。
平野は、昔海だったところが多く、内陸部に山陽道が作られた。
2.646年(大化二年)の詔勅に「畿内の国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置く」(『日本書紀』)
3.650年(白鳳元年)に備前国司が任官したので国府は、そのときでできた。
4.741年(天平13年)には、聖武天皇により「国分寺・国分尼寺建立の詔」があり国分寺ができた。
5.国府は、古代山陽道を作ったときすでにあったが、国分寺は山陽道ができたあと、建てられた。
古代山陽道を作るにあたって、国分寺がどこにあるかは、関係なし。
(備前国分寺が岡山県赤磐市にあるから、山陽道は赤磐市を通過していたことにはならない。)
6.地方の税を都に運ぶため、荷馬車が通行しなければならない。そのためには、ある程度、大きな山を回避して山陽道が作られた。
①播磨国の「明石駅」から備後国の「品治駅」まで、60里単位で駅を結ぶと、次のようになる。
このように、最初に設計した古代山陽道は、60里単位に、山か平野か関係なく、中国の道路をまねて、都に一直線の国道を建設を計画した。
地図をもとに線引きした図が上記の図である。
道幅は、6mから12mはあったらしい。
中国、朝鮮との連絡、筑紫大宰府、吉備大宰(惣領所)を結ぶ「大路」として設計され、特に重要な幹線国道として、整備した。
この中で、兵庫県「野磨駅家」は発掘調査で存在が確認されている。
広島県の「品治駅家」も確認されているが、岡山県内の「高月」「河邊」は推定地。
②次にその中間、30里単位に中間駅を表示すると次のようになる