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つれづれなるままに日暮らし

地図でみる西日本の古代~律令制下の陸海交通 ・ 条里

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地図でみる西日本の古代~律令制下の陸海交通 ・ 条里 ー 史跡 - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjca/47/2/47_2_25/_pdf
島方洸一 著 - ‎2009
ていた角丶野を埋めるべく企画されたロ 基図にはわが国最 ... 幸いにも古代. 研究の第~人者金田章裕先生 - 木下良先生の協力をいた. だき, 律令制下における西日本の古代景観すなわち当時 .... 移るまでの僅かー0年ほ どの宮都であり, 廃都後は条里. の再地 ...

遺跡からみた古代の駅家 (日本史リブレット) 山川出版社

古代律令国家は,全国に道路をはりめぐらし,早馬を乗り継ぐための施設―駅家を約16kmごとに置いた。近年の発掘調査の成果や出土文字資料の検討を通して,駅家の機能に迫る。 刊行:2008年2月

日本古代律令国家は、全国に道路をはりめぐらし、約16キロごとに、早馬を乗り継ぐための施設―駅家を置いた。その数は、平安時代法律書延喜式』によれば、402。駅家の具体的な姿は、従来よくわからなかったが、近年発掘調査によって、山陽道の駅家を中心に、徐々にその実態が判明しつつある。本書では、それらの成果を紹介し、また、出土文字資料の検討を通して、駅家の機能に迫ってみたい。

古代道路の謎―-奈良時代の巨大国家プロジェクト(祥伝社新書316) 新書 – 2013/4/1

日本にもあった! 巨大な直線道路

藤原京などの都(みやこ)と地方を結ぶことを目的に、計画的に整備・造成された古代道路「駅路(えきろ)」。
その道は、どこまでも直線で、巨大な幅を有していた。さらに、想定される総延長は
六三〇〇キロメートルにもおよび、中世、近世、近代をしのぎ、現代の高速道路にも匹敵する。
だが不思議なことに、この大事業がなされた理由が文献史料に見当たらない。
古代道路はなぜ造られ、どのようなものだったのか? そして、なぜ急に廃絶したのか?
本書では、古代史の流れとともにわかりやすく解説する。また、身近に存在する古代道路を、
地図や写真などから見つける方法も披露、謎解きの世界へと誘う。

古代日本の中央政府飛鳥時代から平安時代前期にかけて計画的に整備・建設した道路または道路網を指す。地方では 6–12 m 、都の周囲では 24–42 m に及ぶ広い幅員を持ち、また、路線形状が直線的である(時に直線が 30 km 以上)

7世紀初頭の奈良盆地で建設されはじめ、7世紀中期ごろに全国的な整備が進んでいった。そして、8世紀末 - 9世紀初頭(平安時代初頭)

10世紀末 - 11世紀初頭に廃絶

大化の改新により646年正月に出された改新の詔

「初めて京師(みさと)を修め、畿内国司(うちつくにのみこともち)、郡司(こおりのみやつこ)、関塞(せきそこ)、斥候(うかみ)、防人、駅馬(はゆま)、伝馬(つたわりうま)を置き、及び鈴契(すずしるし)を造り、山河を定めよ。」
— 武部健一 著、『道路の日本史』(2015年)p. 35より。(『日本書紀』からの孫引き)

1300年前の巨大な道路はなぜ造られ、廃絶したのか?奈良時代、国家を挙げて造成した古代道路「駅路」
第40代 天武天皇*

大化の改新直後には畿内及び山陽道で直線的な駅路や駅家(うまや)の整備が行われ、680年頃までには九州(西海道)北部から関東地方(東海道

駅家*