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つれづれなるままに日暮らし

伏見三十石船乗り場

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    • 淀川三十石船今昔

https://www.kyoto-wel.com/yomoyama/yomoyama10/059/059.htm

三十石船の由来

 伏見の町が日本の歴史の中で脚光を浴びるようになりましたのは、伏見を城家町として開花させ、京と大坂を結ぶ淀川水運の発着点として天下に知らしめた豊臣秀吉からです。

 徳川の初期、世相の安定とともに淀川で結ばれていた伏見・大阪間の交通機関として旅客専用の船“三十石船”が登場します。米を三十石積めることから三十石船と呼ばれ、別名を過書船とも云われていました。

 全長五十六尺(約17㍍)幅八尺三寸(約2.5㍍)乗客定員28人〜30人、船頭は当初4人と決められていましたが、幕末には“早舟三十石船”が現れ船頭も4・5人〜5・6人になり、上り下り共時間が短縮されました。

上り船

 大阪には4つの船着き場(八軒家・淀屋橋・東横堀・道頓堀)があり、主として朝早く出て夕方には伏見に着くのが通例でした。上り船は棹をさして上る所もありましたが、十一里余(約45㌔)を殆ど綱を引いて上ったことと思われます。綱を引く場所は9カ所あって、何処から何処までと決められており、大変な労働と時間をかけて、伏見まで上ることになっていました。

下り船

 伏見の船着き場(平戸橋・蓬莱橋・京橋・阿波橋)からは主に夜に出て、早朝大阪着というのが一般になっていました。
 船賃は享保の頃では上り172文、下り72文でしたが、幕末には上り下り共その数倍になったこともありました。

くらわんか舟

 枚方を中心に上下一里(4㌔)付近を通る三十石船などに、餅・汁・酒などを商っていた小舟で、“餅くらわんか”“ごんぼ汁くらわんか”などと汚い言葉で食べ物を売りにきたことから有名となり、“くらわんか舟”と呼ばれるようになりました。
 他に毛馬にも“毛馬舟”という商いをする舟もありました。
 “くらわんか舟”が汚い言葉で悪態を吐くのは、一説には大坂夏の陣徳川家康真田幸村に追いつめられたのを助けた恩賞に、武士に対して地言葉で商いをしてもよいというお墨付きを貰ったという説もありますが、この地方では古くから悪霊を追い払うのに悪態を吐くという習わしがあり、旅の安全や無病息災を願うという意味で使われましたので、旅人に大変喜ばれたということです。見方を変えれば常に威張っている武士に対して、餅や汁を売る農民が、反対に威張って売る姿に、同舟の客が喝采を送っていたようにも思われます。

高瀬舟

 淀川を上って伏見港に荷揚げされた三十石船の貨物等は、高瀬舟によって京の町に運ばれまし
た。高瀬舟高瀬川を上り下りする舟で、京都の二条より鴨川の水を利用して伏見に至る人工運河で、慶長十九年に角倉了以によって完成しました。川幅四間(約7.2㍍)延長五千六百四十八間(約10.3㌔)最盛期には1日170艘の舟が上下しました。

最盛期の三十石船

 淀川三十石船は京都と大阪間(約44.8㌔)を繋ぐ快速船で「早上り三十石」「早舟三十石」と呼ばれ、現代の新幹線のようなもので、多いときには162隻が就航し、一昼夜で上り下りをしたので合計320便、一日9000人が往来したことになります、当時としましては日本の最も重要な交通機関であったといえます。

三十石船の終わりと復活

  かくも繁栄した淀川三十石船も、明治になると蒸気外輪船の導入や鉄道の開通によって、明治の中頃には三十石船もついに淀川から姿を消し、陸上交通(鉄道)が取って代わるようになりました。水運が衰運となりました。
 その後、昭和17・8年頃迄、大阪伏見間の貨物(主に石炭)の輸送にその余生を送ていたようです。昭和51年の春、かっての華やかなりし伏見港の歴史を今に伝えるために、港が整備され、今様三十石船が生まれました。櫓を漕いで棹を操って、のんびりと川の流れに乗って淀川を下る舟ではありませんが、両岸の緑や、四季折々の山野の風景は、今も昔も変わらない所が多く、岸から見る川と、川から見る川とは全く違っており、川はやはり生きているという実感が、肌を通して伝わってきます。
 思いを遠く江戸時代に馳せますと、浪曲森の石松金比羅代参三十石船」でお馴染みの一席や、風雲急を告げる幕末には諸国から京へ集まる勤王・佐幕の浪士達が足繁く往来し、維新前後のあわただしい時代にも、多くの歴史的人物達が三十石船を利用したことと思われます。
 遠くは奈良・平安の時代から、桃山・徳川と千数百年にわたる上り下りの歴史を秘めた淀川の水は、今も悠然と変わらぬ姿のまま流れています。

  • 伏見十石舟

三栖閘門資料館

淀川三十石船舟唄碑