altgolddesu’s blog

つれづれなるままに日暮らし

“古代ひょうご五つの顔”

vol.88 
“古代ひょうご”五つの顔への想い
資料はコチラ↓↓
http://www.hyogo-koukohaku.jp/events/p6krdf0000005wg7-att/p6krdf0000005wh7.pdf

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2015年3月31日で無事、名誉館長になります。ここを引退しようと思ったのは2年ほど前でした。ひょっと気が付くと大中トークが少しがんばったら88回まで行けそうだと。なんで88かというと米寿にはなってないけれども(笑)米寿を目指して、またみなさんの米寿を願って突如12月から月1回の例会を月2回にしてやっていたわけです。
ということで、今回が88回目です。新しい館長にもこういうことをやってきたんだと、引き継いでいます。どんな形になるかはわかりませんが、新しい館長もしてくれるだろうと思います。

“古代ひょうご五つの顔”とはどんな顔なんでしょうか。
もともと兵庫は但馬国播磨国など奈良時代からの5つの国からできています。
聞くところによると明治新政府伊藤博文兵庫県最初の県知事として県全体を盛り立て、神戸を国際港に育てていく、
そういう背景として広い範囲が必要だと判断して、日本海、瀬戸内、太平洋までの地域を一つの県としてまとめる日本中でないような県づくりをしたと聞いております。
そのおかげで兵庫県の古代文化を考えるときも、『もし但馬が鳥取県とか京都府に入っていたとしたら』但馬の古代をあまり気にしない兵庫県民になっていたかもしれない。淡路と豊岡を結ぶ古代文化というのをお互いに気にするようになったというのはいい点なんだろうと思います。表日本と裏日本を別の文化地域だと錯覚している地域が多いと思うんですが、兵庫県民はそうじゃないという利点が生まれてきているんじゃないかと思います。
ということで提案です。播磨国出身の人は播磨以外のところで摂津は摂津以外というようにそれぞれ他の地域で気になるなというところを選んで席替えをしようと思います。突然ですがそれぞれ移動して下さい。
<但馬>
僕が持っている但馬の印象から始めます。何十年か前に兵庫県教育委員会に5年間ぐらい、その前の5年間では西宮市に住んでいた時期など全部で15年程度ですけどそのころに『縄文時代の兵庫』(精文舎)を作りました。一番歩き回ったのは但馬でした。但馬には何回も行って縄文の遺跡をぐるぐる歩きました。但馬の縄文人を考えようと思ったら雪の時期に行くべきだろうと思って、香美町村岡区柤岡(けびおか)遺跡などみましたが、雪の深さが腰までありました。こういう場所で縄文人はどうやって暮らしていたんだろうかと感じたのが印象的でした。
但馬について一言ありましたらどうぞ。
質問−「朝来市の池田古墳について…あれはつぶされたものなんですよ。昭和37年当時の県教育委員会が調べたらこれは前方後円墳ではないのかと確認されているんですよ。それなのにほったらかしにしていたんですよね。だから今、国道9号線が入った時に見つかってしまって。今は道になってしまっていますよね。その時に大事な古墳がここにあるんやでと言っていたらこんな悲劇は起こらなかったのではないか。」
石野−「兵庫県をやめて1年か2年後のことでしたね。県教育委員会は当時の建設省と交渉して橋脚も立てずに高架で行くように決着がついたんですよね。
それに対して文化庁側の当時の文化財担当者がそこまでやる必要はないと発言したと噂ではききました。せっかく兵庫県ががんばったのに国の方がそんなことを言うのは何事や!と思います。
今、その人間が頭に浮かんでいますけれども。そうやって兵庫県教育委員会ががんばって残したものが、地元から橋桁の騒音が大きくて夜も眠れないと申入れがあり、橋脚をつくることになったそうです。その他の橋脚が立つ場所の全面を発掘したら前方後円墳のくびれ部分から造り出しや島状遺構が現れ、埴輪が沢山みつかりました。さっき見せてもらいましたけれども持てないぐらい分厚い良い報告書ができていましたね。
質問−「水鳥形埴輪がでてきて、もっと日本一なんやぞとPRしないといけないんじゃないですかね。」
石野−「PRについては新館長がぜひとも頑張っていただきたいですね(笑)」
会場から−「紙芝居もしようと思っています」
石野−「いいですね。大阪の津堂城山古墳では、堀の中に島を作って水鳥が浮かんでいるかのように埴輪が配置されています。古墳時代の人が葬儀の一部を復元したのでしょうか。それとも、ヤマトタケルの白鳥伝説が結びつくのかどうか、なぜスズメや鶏ではなく白鳥なのかというようなことを考えてみてもいいんじゃないでしょうか。
 朝来は確かに但馬ですけれども、私は間違っていると思うんです。池田古墳の被葬者一族は豊岡の方を向いていなくて、播磨あるいは大和を向いているように思います。但馬の根っからの地域(豊岡や日本海側)の人からみると裏切りもんという気がします。古墳の動きをみると南但馬は古墳時代以来大和向きなんですよね。なぜ同じ但馬の中でのちに但馬国としてまとまっていく地域の中でそういう動きになったのか、考えないといけないことなんだろうと思います。」<丹波>
丹波で思い出すのは、ここで展示しています雲部車塚古墳で、大和から派遣された四道将軍の一人である丹波道主命の墳墓だと地方では言われています。
『日本書記』によると崇神天皇のとき吉備と丹波と越と会津四道将軍派遣されています。派遣していた地域で大和に一番近いのが丹波なんですよね。丹波が大和からみて将軍を派遣すべき地域と考えられていたようで、伝説上では景行天皇の奥さんが丹波国から2人来ているんですよね。べっぴんさんの方を奥さんにして、不細工だと評される人を国に返したというとんでもない話がありました。高野姫でしたかね。
 大和側がなぜ丹波の地域をそれほど意識したのか、将軍を派遣しようと思うような地域性であったのかどうか、それが考古資料からなかなか見つからない。
丹波を掘っていた人いなかったかな?
会場内−「内場山遺跡を掘りました。」
石野−「内場山は西から篠山を見渡せる“いかにも”という場所ですね。僕としてはなぜ周りに大きな集落等もないところに、雲部車塚古墳があるのか不思議に思っていますね。」

<摂津>
摂津には藤原鎌足の墓だと言われている阿武山古墓があります。調べていたら不思議な話がずいぶん出てきました。昭和9年に、岸田先生と末永先生が見学されていますが、その時に考古学に基づいた発掘をされていません。その後、京大の地震研究所をつくるために掘り出したら古墓が出てきたという。そしたら京大に浜田先生や、末永先生がおられるのに、それを退けて地震学者が勝手に掘りまくったということです。なぜ、そうなったのかよくわかりません。
その後、忘れ去られてしまって昭和52年に学校法人がグラウンドを作るために堀り返したら出てきた。その時にたまたま地震研究所の事務所から、昭和9年に発掘したときに撮影したX線写真が出てきた。
それから色々な解明ができるようになったと聞いているのですが、なぜそれほどのものが忘れ去られていたのか、そこは全くわかりませんね。藤原鎌足の墓だということになっていますが、疑問点はないのでしょうか。
阿武山古墳には径80m程の囲溝があり、内部には一辺8mの方形古墳があります。飛鳥時代の墓の作り方としては異常なんですよね。いっぽうでは鎌足墓は奈良県桜井市多武峰山頂があります。昭和9年にあけた時には、大職冠の金糸と玉枕しかなかったようです。鎌足を葬ったのであればもっと副葬品が出てもおかしくないのに談山神社に移したがために副葬品を持って行ったのかなと予測も出来ます。飛鳥時代の古墳は高松塚古墳など副葬品が少なく、銅鏡1面と鉄刀一本だけです。
中期古墳なんかと比べたらめちゃくちゃ少ないです。そういう時代ということでしょうね。大化の改新と称する時期の薄葬令という葬式は簡単にしなさいという法律がでたと書いていますが、そういうことが本当にあったのかどうか。傾向としてはあったでしょうね。そうなると鎌足は命令した側ですからね。薄葬したという可能性がありますね。

<播磨>
会場−「昨日加西市の玉丘古墳にいってきました。今発掘しております。見に行ってびっくりしたのが石棺の底石が綺麗に残っているんですよ。幅160cm長さが350cmですごく大きい。厚みが35cmです。ここに雲部車塚古墳の模型があるでしょう。あれをイメージしていったら全然違った。5世紀のはじめの古墳と聞いていたが、加西市はえらく古く考えているんですね。」
石野−「播磨は国も広いしなぜ古代の人は播磨に都を作ろうとしなかったのか。あるいは戦国時代なんかでも秀吉が姫路城を拠点に播磨を国の中心にしなかったのか。あるいは古代にも政権中枢を置こうとしなかったのか。
土地が豊かだし、その辺りが不思議なんですよね。播磨にある兵庫県立考古博物館としては政権中枢にある人物が播磨をどう考えておったのか、そしてなぜ政権中枢を作ろうとしなかったのか、反対に言うと、なぜ大和が邪馬台国の候補地とか現実には飛鳥・奈良時代に都が置かれたのか。
なぜ大阪ではなくあるいは京都盆地ではなく、琵琶湖周辺じゃなく、日本列島の中心に近いというものであればそこでもよかったのに、なぜ山奥の大和なのか。住んでみたら夏は暑くて、冬は寒くてこんな住みにくいところになぜ都を築いたのか。大和に比べたら遥かに住みやすく、交通の便も良い播磨を都の中心と歴代政権がしようとしなかったのか。これも一つの課題かもしれません。」

<淡路>
淡路島南淡に伊毘(いだ)の浜があり、随分前ですがその沖合にある沖ノ島にわたりました。小さな島には18基の古墳があり、地元の人は普段は島に入らないそうです。「伊毘」とは沖縄の神社に関係する地名で、不思議な一致です。
他方、淡路の沼島は古事記に登場する「おのころ島」伝説の地でひょうご考古楽倶楽部の人たちと出かけました。島のお寺には沖ノ島の古墳からも出土した大きさが20cmほどの弓なりの石棒があります。不思議な石です。
 島の北側の淡路市には弥生時代の鉄器加工場群である五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡があります。あ
 淡路には仁徳天皇ああなどもたびたび出かけている神の島であり、多くの遺跡があるのに前方後円墳がないのも不思議です。

ということで時間切れですね。
88回、長い間どうもありがとうございました。末広がりで私の大中トークを終わります。

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(5)新大中トークのお知らせ 
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今号で最終回を迎えた「大中トーク」。
次号からは今年4月より考古博物館の新館長に就任した和田晴吾館長の「新大中トーク」をスタートいたします。
年間テーマは「考古学入門」とし、「考古学とは何か」を毎月お届けします。考古学玄人のみなさまも、入門したてのみなさまも知識の再整理にお役立てください。
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(6)前号大中トークの訂正について 
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前号大中トーク87にて下記の文章に誤りがありました。

【誤】竪穴石室や石棺は、全く盗掘されず見事に残っていたようで、特色の一つが、刀剣を石室の壁に『掛けていないこと』です。

【正】竪穴石室や石棺は、全く盗掘されず見事に残っていたようで、特色の一つが、刀剣を石室の壁に『掛けていること』です。

兵庫県立考古博物館