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つれづれなるままに日暮らし

vol.82 墓標のある古墳─但馬・対田清水谷古墳─ @ 兵庫県立考古博物館

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vol.82 墓標のある古墳─但馬・対田清水谷古墳─
資料はコチラ↓↓
http://www.hyogo-koukohaku.jp/events/p6krdf0000005tgq-att/p6krdf0000005thq.pdf

今日は但馬で秋に発掘してました古墳の話です。
資料1の写真にあるように、かなり急な、山の尾根に造った墓です。そんなとこに墓造ったら、棺を持って上がるときにコケたらどうなるんだろうと余計な心配をするような、急な坂道でした。職員の上田くんが担当していました。
小さい古墳が点々とあります。大きさが7〜8mくらいの、尾根を削りだした程度の古墳が資料1番の写真に丸を描いてある所にありました。太い丸の所の古墳について、今日はお話します。
尾根沿いに古墳が点々とあって、その中の1つの棺は、人が1人入るくらいの箱型の木棺です。このタイプは古墳時代ならどこにでもよくあるものです。
1つの墳丘に2つ並んで埋葬されてました。木棺を入れる穴の長さは2m弱で、幅は80cmくらいです。その後、木棺が腐って痕跡な全く残ってなく、その穴に土が入り込んで埋まってしまっているのです。そういうのは、どこにでも見受けられます。不思議なのは、資料3番の丸をしているところです。現在の地上に10cmほど石が現れてました。
但馬の場合、播磨と摂津などの瀬戸内海岸部ではあまり見られない、木棺の上に握りこぶしくらいや頭の大きさくらいの石ころを1つ置くようなのは見られます。時々、山陰地方にもあります。墓壙の標石とも言われているんです。日本海側沿岸では稀にみられるんです。
1辺が7〜8cmの石の角柱で、長さが80cmほどです。石柱の一部の10cmほどが地表に現れたんです。地表といっても草が生えておったらわからんですね。その場所に幅10cmくらいの十字の畔を残してます。これは、木棺を掘るとき、土層確認のためにします。
その畔に上手いこと引っかかるような感じで石の頭が出てきました。それが、資料の3番です。掘り進んでいくと、資料4番のように70cm〜80cmくらいの長いものだということがわかってきます。
たまたま現場に行った時に、資料の写真にあるように、石の棒の横に矢印の線を引いてますが、“変なものがあるな。”としゃがみ込んでじーっと見ていたら、石の表面の色合いが何か違うなということに気がつきました。
例えば、資料5番の写真の上から矢印しているは“これが棒ですよ”という目印、2本あるヨコ棒の上の方より上側は石の表面が黒味を帯びています。自然に石が晒されており黒っぽくなってます。ヨコ棒の下の方より下側は白っぽくなってます。
その間はネズミ色っぽくなってます。石の表面の風化の度合いが違うなという印象でした。
何だろうなと見ていたら、一番下の石の表面が白っぽいというのは、この古墳を造ったときに地面に突き刺さっていた部分ではないのかなと、思いました。それより上は地表に現れておったんじゃないんだろうか。途中で棺が腐ると共に石が沈んで、沈むまで見えていた部分と、最後、発掘されるまで地表にあった部分の色合いが若干変わってきているのかと思いました。
ずっと地表に現れている部分と、その中間の部分があったということを、石の表面の色合いの違い・風化の度合いで違ってきているのではないのかなと思います。
これは一体なんだろうかということです。古墳を造った以降に、鎌倉時代とか、江戸時代とかに石がハマり込んだ可能性もないことはないと思います。それにしても、まっすぐ垂直に突き刺さっていますから、やっぱり古墳時代に、埋葬後、石を墓壙上に立てたんだろう。つまりは墓標ですね。今でいう墓石です。現代のお墓にはいっぱい建っています。それに類した墓標を建て、“ここに葬られていますよ。”と目印にしたんではないだろうかと思いました。
考古学者は皆、縄文時代から奈良時代をひっくるめて、日本の古代には墓標を建てる習慣がないということは知っています。この但馬でも、100基以上の古墳を掘ってますけども、そういう痕跡は見っていません。なので、この古墳はよっぽど変わった人だったのではないでしょうか。そして、石だからわかったのですが、墓標があったということは、もしかしたら、他のお墓では木の杭を建てていたのではないか。掘るときに表面を丁寧に調べれば、直径10cmくらいの木の杭をお墓の上に建てておったかもしれない。
他の人は木の杭だけど、このお墓の人だけは石の棒であったかもしれない。という可能性があるから、“まだ掘っていない棺桶の表面は丁寧に調べてみるように。”と、発掘現場の職員に伝えました。
その後、“そういう痕跡はなかった。”ということでした。見落としという可能性はありますけれども、直径が10cmくらいの木の杭なら、それが腐って埋まってしまえば、もうわかりません。
よっぽどの真っ白い土とか、花崗岩の土のようなわかりやすい土に腐植土が混ざれば、わかります。ですが、普通の腐植土なら、落ちてくる土も腐植土だったりしますから、わかりません。だから、なかったという証拠も、あったという証拠も掴めませんでした。
兵庫県の発掘の職員に“こんな現場に見たことあるか?”と聞いたら、皆“ない!”って言いました。“ただ、山陰には稀にあると聞いたことがある”とは言ってました。
これから掘る人は調べていると思いますが、鳥取県には1、2例あるんだそうです。島根県にあるかどうかまではわかりませんけども、もしかすると山陰地方にそういう風習があるかもしれないと思います。
弥生時代から古墳時代のお墓の上の標識を考えると、最初に言いましたように、日本海沿岸にはお墓の上に石ころを置いているのはあります。土器を置いているのもあります。瀬戸内海にはほとんどないですね。
昔、佐用町の吉福遺跡で古墳時代前期初めくらいのお墓を掘ったときに、木棺と思われる物の上に大量の土器のカケラが出てきているのが数基ありました。そういう標石に類するものは日本海側に点々をあるんですが、瀬戸内とは違った風習が3〜4世紀の日本海側沿岸に広まっている可能性があるかもしれません。
墓標に類するものが弥生・古墳・飛鳥・奈良時代にどれだけあるのか。飛鳥時代は日本中でも2例だけです。1つは徳島県です。大きさが40〜50cmの粘土の柱に文字を刻んでいます。塊みたいなものを刻んで、焼いてからお墓の上に置いたようです。
有名なのは国の史跡になっている群馬県の山上の碑は飛鳥時代に葬られた人の名前まで刻まれています。1mくらいの石です。その2例のみで、基本的にはないんです。古代の風習として葬られている人のお墓に何かを建てるということは基本的にはないんです。
今回の石の棒は名前とか書いてないんですけども、これはお墓ですよということの目印として建っている。つまり、その当時の村の人にとっては、だれの墓かわかるのですね。ということは、墓参りの風習があるかもしれない。
でも、考古学者のほとんどは、墓参りの風習があるとは思っていません。私は思っているんですけどね(笑)。民俗学者に聞いても、墓参りの風習は鎌倉時代以降だと言います。
奈良時代平城京を造るときに、お墓があったら、壊すのはやむを得ないけども、丁重に改葬せよと日本書紀には書いてあります。ということは、古墳は墓であるということを知っていたということですね。
現実に平城京では、100m以上の古墳を壊しています。その時には丁重に・・・ということを書いてあります。前方後円墳が墓であるということは、奈良時代の人は知っていたということです。
北海道の平安時代のお墓には墓標を建てる例があります。これはハッキリしています。この当時の人はアイヌ民族ですから、倭人とは違います。倭人にはない風習をアイヌ民族は持っていた。ということは、日本海沿岸にこういうのがあったら、アイヌ系の人がおったんかな。ということは考えすぎかもしれませんがね。
ただ、以前に、昔の日本列島はほとんどがアイヌ人であったということを書いてる本を見たことがあります。その人の根拠は地名でした。アイヌ語で解ける地名が日本には全部あるということでした。朝鮮半島や中国などの大陸から渡来人がくるようになってから、アイヌ民族はみんな追い払われたと思っている人が今でもおるようです。
そういわれてみれば、アイヌとか南九州の人はヒゲが濃いなと思ったりします。古い大和民族が大陸から来た人たちに追い払われて、日本の古い風習が日本列島の北と南の端に残っているんだろうと思っている人は今でもいるようです。なかなか、それが本当かどうかはわかりませんね。
というような、変わった風習が但馬で見つかりました。

2014.12.17

兵庫県立考古博物館*