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つれづれなるままに日暮らし

vol.81  神功皇后伝承と大和の王族−播磨・五色塚古墳と大和・巣山古墳− @ 兵庫県立考古博物館

vol.81  神功皇后伝承と大和の王族−播磨・五色塚古墳と大和・巣山古墳− @ 兵庫県立考古博物館 (*)

資料はコチラ↓↓
http://www.hyogo-koukohaku.jp/events/p6krdf0000005ti3-att/p6krdf0000005tj3.pdf
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今日は五色塚古墳に関係する話です。
神功皇后伝承と大和の王族」というテーマですが、神功皇后は実際に存在していないと言われている方で、応神天皇のお母さんです。『日本書紀』では、韓国に出兵する前から、おなかの中にのちに応神天皇になる赤ちゃんがいたが、出産を抑えて、帰ってきてから産んだ勇ましい女性だと描かれています。
その神功皇后が、朝鮮出兵に際して、瀬戸内海の各地に様々な伝説を残しています。
尼崎から赤穂に至る、兵庫県内の海岸の神社は、神功皇后を祭った・立ち寄ったなどと言われています。そのうちの神戸市の垂水の海神社姫路市の魚吹八幡神社はお祭りのときに行きました。
その神功皇后伝説と大和の王族の話です。資料1番の古事記には“気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)”とあります。神功皇后のことです。“息長”は滋賀県東近江市の息長郷に比定されており、そこの出身ではないかと言われています。伝説上の人物ですが、琵琶湖周辺に関係する神功皇后に比べられるような女王がいたのかもしれません。
その気長足姫尊が九州から大和に帰ってくるときに“人の心疑わしい”、と謀反を予感し、喪船を備えました。喪船とは葬式用の船のことです。それに子どもである応神天皇を乗せて、“子どもはすでに死んだ。”と噂を流して、明石海峡を通り、大阪湾から淀川からさかのぼったというお話があります。
そこで戦争を仕掛けようと明石海峡の五色塚に立てこもっていた大和側の軍勢が“死んだなら仕方ない”ということで引き上げたという話が載ってます。
同じような話が日本書紀にもあって、大和側の大王が“忍熊皇子”というのですが、奈良市に押熊という地名が近鉄西大寺駅のちょっと北の方にあります。秋篠寺がある地域でしょうか。この2人の王は、『日本書紀』神功紀によると、大和の大王候補である?坂王と忍熊王は、仲哀天皇が亡くなったと聞いて、天皇の為に赤石(明石)に陵を造ると嘘を言って、明石海峡に兵を集めました。
明石海峡に面してある五色塚古墳のことだろうと普通言われています。
五色塚は4世紀末から5世紀始めの200mくらいの大きな古墳です。すでにある古墳が奈良時代に伝説として登場しているということです。その五色塚に立てこもって、忍熊王と?坂王の2人皇子は神功皇后の軍と戦争をしようとしました。しかし、ここで戦争をしたら負けそうだということで、2人の皇子は大和へ引き返して、奈良市の北側に陣地を構え直したという話に続きます。
古事記日本書紀に書かれた1つのお話ですけれども、それに見合うようなことが、最近わかってきました。というのが、奈良県の巣山古墳です。
五色塚古墳の場所は明石海峡大橋から見ると、橋の右側に見えます。海に面してます。山陽電車五色塚古墳の前方部の先端の一部を切ってます。私は博物館まで山陽電車で来る時は、いい天気の日だったらカメラを用意して走っている電車の窓から写真を撮ってます。古墳の先端すれすれを電車が走っています。
資料8番の図面は大学院時代に測量に参加したときのものです。その当時は籔だらけで、樹木や草が一面に生えていて、地元から管理していた神戸市に“不良のたまり場になっている”とか“高校生数人がたむろしている”などの抗議の電話があったそうです。それで神戸市が全部の草を刈って、木も全部切りました。
そしたら今度は地元の「自然の緑を守る会」のような団体から“木を切るとは何事か!”と怒られたという話を聞きました。そういうことがきっかけになって、それから数十年かけて、神戸市が今のような姿に環境整備をしました。200mクラスの大型の古墳を史跡にして、埋葬施設以外は徹底的に墳丘調査して復元整備したのは、日本中で最初の例になります。全面に葺き石を葺き直した整備の最初の例なんです。
巣山古墳は奈良県広陵町にある、大きさが200mあまりの大きな古墳です。奈良盆地は狭く、南北は25kmで東西は12〜13kmの小さな盆地です。播磨の平野部に比べたら遥かに小さい盆地です。その東側に大王家一族のオオヤマト古墳群がずらりとあります。古墳の数は25〜26基あります。その中に崇神天皇陵や景行天皇陵と言われている古墳もあります。
奈良盆地の西側が葛城の地域で、そこにも200m前後の古墳が3つか4つあります。年代は4世紀末から5世紀で、その中の1つが巣山古墳で、大王墓に匹敵するほどの大きな古墳を造っています。ただし、○○天皇の墓であるというような天皇陵伝承はありません。ここ十数年、広陵町教育委員会が周濠の再調査をやってます。
その中で、資料6、7番にある船形埴輪の先端にそっくりな実物大の木製品が出てきました。古墳周濠の中にヘドロがいっぱい溜まっていて、その中からいろいろな木製品が出てきました。船材一括があったのは周濠の東北隅でした。船材は今、広陵町役場の一角にある文化財資料室に復元展示されています。それが資料6番のスケッチで、7番に実測図があります。船の突端に付く波除け板があり、表面に直線と弧線と書き分けた直弧文などの呪術的な文様を刻んだ幅が70cm〜80cm、長さが1m50cm〜1m60cmくらいの湾曲した板です。
3番の船形埴輪の写真にもそっくりな文様が波きり板に刻まれてます。巣山古墳の周濠から、実物大の船の波きり板と、それに伴う船の部材が固まって出てきました。掘っている時に現場に行ってみたときは一体なんだろうと思いましたが、町の教育委員会が取り上げて調査した結果、実物の船だとわかりました。奈良県には海はありませんが、復元すると全長10mを越える船の部材が、
なんで古墳の堀にあるのだろうか。神功皇后伝説にある、古事記日本書紀に書かれてある葬式用の船、喪船ではないだろうかと考えられます。巣山古墳は4世紀の終わりから5世紀の始めのお墓ですけれども、その古墳に葬られる葛城一族の館が近くにあったから、葛城の王が亡くなって遺体を喪船にのせ、古墳まで運んで、遺体を古墳に埋葬したあと、喪船を村には持って帰らず、堀に沈めて帰ったのではないかと私は解釈をしました。いろいろな解釈がありますが、喪船の部材であるという点は一致しております。
古事記日本書紀に書かれている葬式用の船があったんだという記事が8番にあります。それを見たときに“どっかでみたな。”と思い出しました。万博記念公園にある国立民族学博物館です。そこに韓国の葬式用の実物の船が展示されてます。それを思い出して、見に行きました。ずいぶん形が違うんですが、韓国の場合は本当の葬式用に造った船です。
日本では江戸時代頃に韓国には、葬式用の船があり、韓国の民俗学者は注目をし、韓国の国宝として保存されているのだそうです。そういうことがわかってから、私は韓国の民俗学者に知り合いがいませんから、国立民俗学博物館の仲間に電話をして、韓国の喪船に詳しい民俗学の人を紹介してもらい、その人に連絡をしました。
私はFAXとかメールとかようせんのですが、ふたかみ史遊会のデキる人にメールを送ってもらいました。送ってもらったら、すぐに返事が来ました。メールって本当に便利なものですね。手紙だったら気候の挨拶から始めんといけませんけど、メールだったら用件書いて資料送って、そっちの資料が欲しいといえば、すぐに送ってくれて。
その人は後日、東京の研究会に来るということを聞いて、東京に出かけて詳しい話を聞きに行きました。韓国では、日本の江戸時代にあたる頃まで喪船が使われておったんですが、今では民族資料として、国宝として保存されているのが何艘かあるということを言っておられました。
日本古代に喪船が本当にあったんだということが初めて実証されました。そうなると、古事記日本書紀に書かれているが、実在しないとする神功皇后の話が少なくとも記録された飛鳥時代かそれ以前の日本国内に、葬儀用の喪船があったことが実証された例になるかと思います。その中に登場する五色塚古墳もまた、身近な古墳ですから、改めて現地へ行って明石海峡を眺めて、ここを神功皇后が通ったという伝説があったんだなという感じで眺めてみて下さい。
ということで、終わります。

2014.12.5

兵庫県立考古博物館メールマガジン

2015年3月25日 10:02

韓国*