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つれづれなるままに日暮らし

vol.80 古墳時代の船と水運 @ 兵庫県立考古博物館

vol.80 古墳時代の船と水運 @ 兵庫県立考古博物館 (*)

資料はコチラ↓↓
http://www.hyogo-koukohaku.jp/events/p6krdf0000005quv-att/p6krdf0000005qvv.pdf
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 今日は船の話をします。4、5日前に高槻市の今城塚古代歴史館で行われていた「古墳時代と水運」という小さな展覧会に行ってきました。それを紹介したいと思います。
私は以前から、日本は海に囲まれていますから、丸木船はもちろんあるけど、帆柱がつくのはいつごろからなのだろうと思っていました。中国や韓国と交渉は昔から行われていましたからね。海外へは、手漕ぎでは無理だろう。帆柱がないと、とっても行ったり来たりはできないだろうと思います。だから、帆を立てた船はいつ頃からできたのだろうと、ずっと前から興味がありました。自分で真面目に調べるまではやってないんですけどね(笑)。そういう関心があったから、この展覧会に行きました。
 兵庫県教育委員会が、但馬の出石神社近くの袴狭遺跡を発掘調査をしたときに、木製品が川の中から大量に出てきたそうです。その時に取り上げて持って帰ってきた板に、
現場ではわからなかったようですが、板に釘でいっぱい引っかいたような絵が描いてあったんです。それが今、展示室にある板ですね。それは、弥生後期から古墳前期の土器が埋まっていた川から出土したそうです。その年代は一番新しくても、古墳前期の4世紀ですね。邪馬台国時代の3世紀の可能性はあるかもしれない。でも、慎重に考えれば4世紀のヤマト政権ができた段階であるとしよう。その時期の船が十数艘描かれているんです。
船団の真ん中に一番大きい船が描かれているんですよね。資料で黒く塗りつぶしているのがそうです。真ん中に一番大きい船があって、その周りを小さい船が十数艘取り
巻くようにして日本海を漕いでどこかに行こうとしている様子です。おそらく中国か韓国か、大陸へ行こうとしているのであろうと。そういう船団の絵が出てきました。
しかし、外洋へ行くのであれば、なんで帆柱がないんだろう。帆柱も何にもなく、船体だけが描いてあるという奇妙な絵です。沖合いに停泊しとったといえばそうなのかもしれないですが。それにしても、これだけ船団組んで外洋に行くのであれば、帆柱の線を1本描いてくれればいいのに、帆柱の跡もないというのが不思議です。しかし、船の絵であることは確かで、年代は新しくみても古墳前期です。これは一級資料ですね。
 資料の2番目は三重県松坂市にある宝塚古墳出土の巨大な船形埴輪です。全長90mほどの5世紀前半の長突円墳(前方後円墳)です。応神天皇仁徳天皇がおったと言われている時代ですね。
あまり注目されていないのが、資料3番の宝塚1号墳の舟形埴輪の実測図にある船底の穴です。船底にわかりやすいように丸を描きました。船の底に穴を空けています。こんなことをしたら水漏れをしますよね(笑)。それなのになんで穴を開けているのでしょう。埴輪の船底にわざわざ穴を開けている。この穴に木で作った棒を立てておったんではないかと考えました。船底の穴に帆柱を立てていたのではないか。恐らく、木で作った柱を粘土で作った船の真ん中に立てて、そして布で作った帆をかざし、古墳に供えたのではないかと想像しています。
 三重県松坂市は、海に面しており、5世紀の応神・仁徳天皇が活躍をしたといわれている時代に、大きな船があって、その船に帆柱が立っていた可能性がある。それで、帆柱がどこに立っていたのかを見に行ったのです。
資料5番は、大阪府久宝寺遺跡から出てきた船の材料です。近畿道を造るときに、地下5〜6mの深さを掘ってました。いつも上を車が通っているから、掘っている連中は、鼻毛が伸びて敵わんといっておりました(笑)。車が出す排気ガスの影響ですね。人間の体は鼻から排気ガスが入らんように防御するんです。ということを思い出しました。
その時に、木で造った本物の船が出てきました。資料5番につい立みたいなんが立っていますが、船の先端に立てる高さ1m数十cmの波除板です。船の底板も、横板もある構造船です。丸木船でなく、構造船が3世紀の終わりから4世紀になると、造られていることがわかります。
 資料6番は5世紀前半、古墳時代中期、高廻り1号墳の舟形埴輪です。船底の上に穴が空いております。本来は、帆柱を立てたんだろうと思います。そうじゃない可能性としては、魚釣りをする人ならすぐに思いつくのは“生簀”ですね。船の中の1mくらいを板で囲み、船底に穴をあけ、栓がしてあります。栓を抜くと海から水が入ってくる。そしてすぐに栓をして、釣れた魚を生簀に移すんです。獲った魚は生きたまま港に持って帰るので新鮮です。
 ということで、生簀の可能性もあります。ただ、そう思ってみた時に、資料5番の船は、本物の船で長さを復元すると全長12m〜13mになります。資料6番は埴輪ですけども、資料5の解体を参考にしますと、囲いをしている範囲は3mになるんです。3mもある大きな生簀をつくるなんて、カツオを釣るわけでもあるまいしといった感じですね。ということから考えると、仕切りはしてますけども、真ん中に穴を空けているということは、生簀のための穴ではなくて、やっぱり帆柱だろうという風に思います。それを横から見たのが下の写真です。
資料7番は高槻市の今城塚古墳です。6世紀に継体天皇を葬った墓として有名です。今城塚古墳は大阪湾からだいぶ入り込んでいるんですが、古墳に祭られた埴輪に船の絵がいっぱい描いてあります。
 それが資料7番です。船の絵に本船に棒が2本描いてあります。これがマストでしょう。帆を支えるマストだと皆思っております。私も思っております。これには帆を描いてませんが、普段から動かないときは帆は下ろしており、海に出たら帆をあげます。
今城塚古墳の近くに“筑紫”という地名があります。おそらく九州系の人たちも、瀬戸内海を通ってここまで来たのだろう。実際、今城塚古墳出土の3基の石棺のうち1つ基は、熊本県阿蘇石を使っています。
今城塚古墳の資料館に行くと、大きな石棺が3つ並んでます。播磨の竜山石と河内大和の二上山石と肥後の阿蘇石の三種の石棺材のカケラが出ています。見事に復元されてます。
 その中の熊本県阿蘇石を使った石棺に人形が入ってます。継体天皇らしい人形です。資料館を造ったひとは、継体天皇は、熊本の阿蘇石の石棺に入ったと思っているんでしょうね。私も実はそう思ってます。兵庫県の博物館に勤める者としては“いや、竜山石だ!”と言うべきですけど(笑)。考古学者に多数決を採ったら、おそらく8割の考古学者は“竜山石”だというでしょうね。なぜかというと、竜山石が大王のための石棺材というほど、大きな古墳の石棺は竜山石で造られています。そういう点では、継体天皇も竜山石の可能性が1番高いでしょうね。
 少し違った考え方をすると、わざわざ阿蘇石があるということは、継体天皇は大王のなかでもすごい力を持っている人だから、そのことを天下に示すために、一族がわざわざ熊本から石棺材を取り寄せたということは在り得るだろう。他にも近畿の古墳で、阿蘇の石を使っておられるのは何人かいます。
 このことを図録でまとめているのが、資料の8番の年表で、西暦300〜400年あたりで見つかっている船形埴輪や船の絵を整理してます。1番古いのが大阪府久宝寺遺跡の邪馬台国時代の船があり、それ以降が古墳時代の前期・中期・後期、4世紀から6世紀の中国・韓国へ行ける位の構造船、10mを超えるような大きな船がありました。それが船形埴輪によってわかるし、時々、板で造った船材が集落遺跡から出てきます。その頃、大阪府奈良県にあったヤマト政権が、中国と交流しようとすれば、主な航路は瀬戸内海になります。
したがって、ヤマト王権の船は、兵庫県沖を必ず通り、明石海峡を当然通っていく。その時に明石海峡を押さえておったのが五色塚古墳の被葬者一族です。五色塚古墳一族が許可を出さないと明石海峡は通れません。
 地域の豪族はそういう役割を果たしておったんではないかと思います。ただその時に、五色塚古墳に葬られている人が、どこの人なんだろう。考古学者は“ヤマト政権から派遣された人に違いない。”と言ってますけども、兵庫県立公庫博物館としては本当かどうか検討する必要があります。ただ、明石とか播磨とか、その地域の豪族だとすると、五色塚古墳をつくるほどの大きな集落遺跡があってほしいところです。明石川流域あたりでほしいところですね。玉津・田中遺跡がありますから、無いとは言い切れませんが、その辺がこれからの楽しみだと思います。
 ということで、終わります。

兵庫県立考古博物館メールマガジン

2015年2月25日 9:49

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