【一橋領について】 清水、田安、一橋を御三卿と言います。御三家は尾張、水戸、紀州で家康の子を祖にしていますが、御三卿は八代将軍吉宗の子を祖にしている。御三卿は他の大名のように決まった領地や城を持たず、江戸に屋敷を構え、天領や諸国からの回米より一家10万石の手当がされた。という特長がある。
また家臣も全て幕府からの出向で、期間が終わると幕臣に戻る制度で、また年貢米も幕府代官が代わって集納する方式になっていた。このため、御三卿の領地はちょくちょく変わり、田安家では一時全国20数ヶ国にあった事例が残っている。
岡山県内の備中国では1700年台に最大33,500石の一橋家の領地や郷があった。ただしばらばらに点在している。 【天領について】 天領の基になったのは、「秀吉直轄地」というもので、秀吉は戦国大名を平定して行くと順次その地に一~数郡、石高にして1万~数万石の「秀吉直轄地」を置く。
結果全国に「秀吉直轄地」ができ、秀吉は各々に代官を置き諸国大名の動静を探ると共に、各地の作況を調べ、また局地的災害による不作による被害を全国に直轄地を分散させることで平均的な収穫を得る方法を採用した。
秀吉死後、天下が家康に移った頃にはそうした天領は全国で100万石程度であったものが、その後有力大名の取潰しや減封、また新田開発による増産、流通の整備によって1700年台には四倍に膨れ上がり、延享元年(1744)には436万余石の最大記録を残すが、その後は減少傾向となる。 なお、天領については、国別でなく大きな地方や道、筋で分けられ、享保一四年(1729)の記録では、 関東102万7190石、畿内67万6340石、海道筋(東海道)73万2610石、北陸筋27万7440石、奥羽筋37万3940石。中国筋41万180石、西国筋12万3860石 という記録が残っている。 【岡山県の天領】 岡山県は備前28万石、備中39万5千石、美作25万9千石とされ、その合計は93万4千石。実収は開拓や干拓による新田開発が行われたので、三国で120万石は下らないとされている。 有名なのが備中の倉敷陣屋で、ここで備中、倉敷、美作(一部)、久世、讃岐(一部)、塩飽諸島の天領地を管理し、その取扱高は約5万3千石で、日本でも大きな方の陣屋になっていた。ただ、天領の管理形態は道、筋で区切っていたため、倉敷陣屋では美作国の一部や讃岐(香川県)の一部、塩飽諸島も管轄していた。 美作国には別に7万3500石の天領があり、各地に点在していた。 【岡山県の小藩や知行地、国外他藩領など1700年台で表示】 *備前:一国一藩として岡山藩28万石池田氏(他国に3万5千石別にあり) 但し、岡山市内にも庭瀬藩領や足守藩、旗本戸川、花房氏の知行地が存在する。これらは備中の扱いになる。 *備中:八藩に加え旗本知行地、国外他藩領(他藩の飛び地)、天領が混在する。 松山藩(高梁)5万石板倉氏、庭瀬藩(岡山)2万石板倉氏、新見藩(新見)1万9千石関氏、鴨方藩(浅口郡鴨方)2万5千石池田氏、生坂藩(倉敷)1万5千石池田氏、岡田藩(吉備郡真備)1万石伊東氏、足守藩(岡山)2万5千石木下氏、成羽藩(川上郡)5千石山崎氏、浅尾藩(総社)1万石蒔田氏 他国藩の飛び地としては、約4万1千石が 伊勢亀山藩石川氏1万石、丹波亀山藩松平氏5千石、丹後宮津藩松平氏2万石、摂津麻田藩青木氏3千石、摂津三島長谷川氏3千石の領地があり、 旗本知行地が一五箇所3万6千石、一橋家3万3500石、倉敷陣屋(天領)が5万3千石となっていた。 *美作:二藩(幕末に+鶴田=たづた藩1万石)と他国藩の飛び地と天領。こちらも分け方はばらばら。 津山藩(津山)10万石松平氏、勝山藩(真庭郡勝山)2万3千石三浦氏、 他国藩飛び地としては、約5万1千石が 播磨明石藩松平氏9900石、播磨龍野藩脇坂氏2500石、常陸土浦藩土屋氏8700石、上野沼田藩土岐氏1万4200石、下総古河藩土井氏1万800石、三河挙母藩内藤氏5千石の領地があり、 さらに天領7万3500石が存在した。 【明治の廃藩置県と岡山県の成立】 *幕末に名称が変わった藩:美作国勝山藩⇒真島藩、備中国松山藩⇒高梁藩 明治4年7月、県内に14県が成立する。 備前:岡山県、旧岡山藩の備前国の範囲を岡山県とし、他は近隣県に編入。1県 備中:鴨方県、生坂県、足守県、新見県、庭瀬県、岡田県、浅尾県、高梁県、成羽県、倉敷県の10県 美作:津山県、鶴田県、真島県の3県 明治4年12月、備前、備中、美作の旧国の県をそれぞれ岡山県、深津県(後に小田県と改称)、北条県とし、3県に統合する。 明治8年12月、岡山県が小田県を編入する。 明治9年4月、北条県の内、旧備後国になる6郡を広島県に分割編入し、北条県は岡山県に合併され現在の岡山県が成立する。