安土桃山時代の豊臣政権末期に秀吉遺言覚書体制[1]に基き、主に政権の実務を担った浅野長政、石田三成ら5人の政治家(奉行職にあたる)的人物達を指して呼ばれる言葉。ただし当時は「五奉行」などの特定の呼称は存在せず、「奉行」「年寄」などと呼ばれており[2]、秀吉は三成らの側近を政権運営の要とするため、奉行を「年寄」として名目的に重みを加えておく必要性を感じ、反対に家康以下の宿老を「御奉行」とよばせることで勢威の減殺を図ったのではないかと指摘されている[3]。
- 主に司法担当 – 浅野長政(甲斐甲府22万石)
- 主に宗教担当 – 前田玄以(丹波亀山5万石)
- 主に行政担当 – 石田三成(近江佐和山19万石)
- 主に土木担当 – 増田長盛(大和郡山22万石)
- 主に財政担当 – 長束正家(近江水口5万石)
#253「小田原攻め 秀吉の野望 VS 北条一族の誇り」
2020年11月9日(月)放送
430年ほど前の戦国時代。
五代、100年にわたり小田原の地を治めていたのが、
相模国の戦国大名・北条氏。
北条氏は、周辺諸国にまで勢力を拡大し
『関東の覇者』として君臨していた。
ところが、その北条氏が、突如歴史の表舞台から姿を消すことに・・・
そこに大きく関係したのが豊臣秀吉だった。
天下統一を目前にしていた秀吉は、
北条氏が支配する関東を征服しようと20万を超える
未曾有の大軍勢を率いて、小田原へと乗り込む。
そんな豊臣軍に怯むことなく立ち向かっていったのが、
北条氏政・氏直親子だった。
果して2人は、如何にして豊臣軍に挑んでいったのか?
あの武田信玄や上杉謙信も退けた、北条氏の鉄壁の城、小田原城。
氏政・氏直親子の秘策は、『町を挙げて戦う』ことだった!?
小田原城下に、一夜で城まで造った?
莫大なお金を注ぎ込んだ、秀吉の前代未聞の大作戦とは!?
双方攻め手を欠く中、戦局を大きく動かしたのは、
あの独眼竜・政宗だった!?
天下統一を前に、沸々と燃えたぎる秀吉の野望。
関東の覇者として君臨してきた北条氏の意地と誇り。
そんな両者が、3か月にわたり一進一退の攻防を繰り広げた、
『小田原攻め』を徹底検証する!