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つれづれなるままに日暮らし

家康と大阪の陣 @ 泉秀樹の歴史を歩く

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秀吉が大坂城に残した財産は、金子9万枚、銀子16万枚、金銭5貫文、銀銭200貫文、大判千枚吹きや2,000枚の金分銅、ほかにも貴重な宝器、什物、衣類、武具、弾薬、兵糧などなどすさまじい価値があるものばかりだった。
それらの遺産から、秀頼と淀君関ヶ原の翌々年から5年の間に、大坂で28個の金塊から大判4万5,072枚を鋳造したという。
1,970貫(7,387.5㎏)で、現代の金額で約750億円ほどか。
家康は豊臣家の力を削ぐために金を使わせたのだったが、その財力に舌を巻いたことだろう。
が、ここで確認しておかなければならないことは、淀君の意思だ。
醍醐寺にしても北野天満宮にしても、再建、造営についての出費の最終決定権は、秀頼ではなく、淀君が持っていたのだった。
秀頼の後見人としての淀君の地位は、北政所・ねねにも勝るとも劣らない強権であった。
淀君は豊臣家の実質的な最高権力者であった。 
これは、豊臣家にとって、よかったのか?
よくなかったのか?
慶長八8年(1603)家康は「征夷大将軍」に任じられた。
しかし、わずか2年後の慶長10年(1605)には、その将軍職を息子の秀忠に譲り、みずからは駿府に引退して「大御所」になってしまった。
このことは、将軍職を徳川家の世襲制にするということを意味していた。
そして家康は、このとき13歳であった秀頼に、将軍・秀忠に対して、上洛して賀詞を申し述べることを要求した。
その使者は、北の政所・ねねがつとめたのだが、豊臣家側がこれを承知すれば、豊臣家が徳川家に服属する大名のひとつであることを認めたことになり、万事がおだやかにおさまるはずだった。
が、淀君は激怒した。
淀君は家康の要求を言下に拒絶し、さらに上洛せよというなら秀頼を殺してみずからも自害する、といった。
淀君は、家康に対する敵意だけでなく、北の政所・ねねにも敵意を抱いていたのかもしれない。
淀君は冷静さを失い、女性特有のヒステリックな反応をしたように感じ取れる。
そして、すでに64歳になっていた家康は、これをきっかけとして豊臣家を完膚なきまでに潰さなければならない、と肚を括ったといわれる。
地震で倒壊したり火災で焼失していた京都・方広寺京都市東山区)の大仏殿が建ちあがり、鐘が完成したのは慶長19年(1614)4月のことである。
青銅製で口径2m75㎝、高さ3m24㎝、厚さは27㎝という巨大な鐘である。
この鐘はとくに関ヶ原の合戦のあと秀吉を供養するため、豊臣家の威勢復権を示すための、秀頼の一大事業だった。
この方広寺の大仏の再建造だけで金14万3千枚、銀2万3千余貫、米23万6千石が消尽された。
そして、ここに「方広寺鐘銘事件」がひきおこされる。
この巨大な鐘の銘文は東福寺(京都市東山区)の文英清韓が書いたものだったが、崇伝や板倉勝重、御用学者の林羅山らが鐘に彫られた銘文に問題の言葉があると難癖をつけた。
「国家安康」とあるが、これは家康という諱を二つに切ることを意味する。
「君臣豊楽」は、豊臣家だけが栄えるという調伏・呪詛の意味ではないかといういいがかりで、文英清韓は釈明したが、無視され、これは結局、大坂冬の陣の口実にされたのだった。

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