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つれづれなるままに日暮らし

好太王碑の謎―日本古代史を書きかえる (1973年)

2020年4月1日に日本でレビュー済み

 
著者は「明治大学」講師で「在日朝鮮人」の『好太王碑』の研究家である。「日本」にある『好太王碑文』の拓本の偽造を唱えている。
 先のとおり彼は拓本の捏造を唱えているが、それを細かく記したものである。
 『好太王碑』は「北朝鮮平安北道(現在の「慈江道」)江界郡満浦邑の対岸の「中国」側にあり「吉林省」の「集安市」にある。ここは『高句麗』の「通構城」があったところである。『好太王(広開土王)』は『高句麗』の第19代王(在位-391年~412年)である。2003年に「中国」の申請によって「世界文化遺産」に登録された。これに対し「韓国」は『高句麗』は「朝鮮三国」の1つで「中国人(女真族)」とは関係が無いとして反発したが、『高句麗人』とは古代中国の東北(旧満州)から朝鮮半島北東部にかけて居住していた民族の名称。「貊(ばく)」で「穢貊(さいばく)」とも記されることもあり、狩猟を生業とする森林地帯に住む「ツング-ス系民族」で農耕民族「朝鮮人」ではない。したがって「韓国」の主張は受けれがたい。
 『好太王碑碑』が知られるようになったのは中国の「光緒6年」(1880年)でこの近辺の土民(原住民)の中の「拓本師」が「拓本」を取って売りさばいていたことからである。
 『好太王碑』を説く前に『好太王』について説明したい。王は374年に先代王の子として生まれ、391年にわずか18歳で第19代王に就任した。412年、39歳の若さで病死した。『好太王碑』は次の「長壽王」によって414年に建立された。「高句麗」はその後中国の「燕」に攻められ424年に「平壌」に逃れ668年、第28代「寶蔵王」に「唐」に攻められて滅亡した。建国から約800年であったとされる。しかし「高句麗」の遺民は「渤海」(698年~926年)や「高麗」(918年~1392年)を建国したから「百済」・「新羅」が滅びてからも続いていたことになる。
 「日本」でも『好太王碑』のことを知って多くの人がそこを訪れて「拓本」を取ったり、筆記したりしていた。その中でも有名だったのが『酒匂景信』陸軍大尉で「清国」に派遣されたときにそこに行って『広開土王碑文』を筆記したことである。しかし<筆記>というものであったために信頼性が疑われ「李 進熙」は<偽造>としている。多くの「日本人」もそこを訪れて、自ら「拓本」を取っている。今では<偽造説>は否定され、それと共に『李 進熙』は舞台から消え去ってしまったが、<偽造説>を知るうえで貴重なものとなっている。
 ところで『好太王碑文』は、そこに刻まれている「年」の解釈や所々「字」が欠けており、それをどう埋めるかが長年論争となって来た。まず『好太王』が「倭軍」と戦った「辛卵年」とは何年かである。
しかしこの部分は『好太王碑』の上部にあるため確認できなかった。
これは<391年>に間違いない。それは『日本書紀応神天皇8年(397年)に『「百済」が「倭国」に人質を出して修好した』との記載があり、『好太王碑文』の『百残(「百済」、誓いに違い、倭と和通した』と一致するからである。なお「朝鮮」の古書『三国史記』、『三国遺事』は『日本書紀』よりも遥かに新しいもので『日本書紀』を参照して書かれているが、不思議なことに『広開土王碑』に関する記載がない。
 『好太王碑碑文』の解釈や「欠字」にどのような漢字を当てるかは長年論争になっており、ここでもそれが解説されている。ただそれは人によって解釈が異なるので他の『好太王碑文研究書』をご覧いただきたい。
 彼が先のとおり「拓本」の<捏造>を唱えるのは、それが「酒匂景信」という「日本陸軍」大尉によって持ち返られ、その研究が「日本陸軍学校」によって調査されたためであるとする。しかし「日本陸軍」大尉によって持ち返ったならばやはり「日本陸軍」がその真偽を調査するのが当然だと考える。
 「拓本」の<捏造>を考えるに当たっては(1)『好太王碑』がいつ、どのような状態で発見されたか、(2)「拓本」はいつどのような状態で取られたか、が肝要である。
(1)については「明治23年」(1889年)に記された『会餘
録』第5集で「明治22年」(1888年)、土中より30年くらい前より姿を現したものを土人4名が掘り出した、(2)「拓本」はそのうちの2名が作成して売った、である。これには異説があり「三宅末吉が書いた『高麗古碑文』では「明治15年」(1882年)に発見されたとしている。しかし土中から姿を現したと言うが『好太王碑』は強大で土中に埋められていたとは考え難い。「明治15年」(1882年)に発見されたととするのが正しいと考える。
(2)については「拓本」は数多く取られておりどれが正しいのかは決めがたいが「集安県博物館」にあるものが「中国人」の専門家(「王 健群」など)により正しいとされている。これが先の「酒匂景信」大尉が持ち返ったものであるかどうかは、それが「宮内庁」に保管されているので確かめようがない。ただ「李 進熙」はなおもこの「拓本」は<偽造>されたものだと主張している。それは『好太王碑碑文』の「拓本」を取りやすくするために「石灰」を塗ったしており「拓本」が不鮮明であると考えているからである。しかし「石灰」を塗ったために「拓本」が不鮮明となったかは、多くの「拓本」と『好太王碑碑文』とを確かめあった結果、そのようなことはなかったとされている。
 ともあれ「本書」は『好太王碑』の<改竄>を唱える者の主張が良くわかる良書である。 

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著者は「明治大学」講師で「在日朝鮮人」の李 進煕 『好太王碑』

「日本」にある『好太王碑文』

好太王碑 - Google 検索 

4世紀の日本については,中国の正式な記録にも記述がなく,
「空白の4世紀」とか「謎の4世紀」などといわれます。
そういう状況にあって,当時の日本と中国東北部朝鮮半島
との交渉を知ることができる貴重な資料とされているのが,好
太王碑文(広開土王碑文)です。
好太王碑は,414年に高句麗好太王(広開土王)の業績を
顕彰するために建てられました。石碑は,高さ6.34m,幅平均
1.59mの不正形の方柱状の自然石で,現在の中国吉林省の鴨緑
中流の北岸にあります。約1800字が刻まれていますが,長年
の風化により不鮮明な箇所もかなり見うけられます。
碑文には,倭や百済高句麗と交戦したことが記されていま
す。特に,391年(辛卯年)の「而倭,以辛卯年来,渡海破百残
□□□羅,以為臣民」(而るに倭,辛卯の年よりこのかた,
海を渡りて百残□□□羅を破り,以て臣民と為す)の部分
(写真の左から3行目)は,よく知られています。 

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