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磐井の乱(いわいのらん) 527年(継体21年)、好太王碑(こうたいおうひ) 404年 倭・高句麗戦争

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磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井(『日本 ... 古墳時代 · 日本の戦い · 6世紀の戦闘 · 福岡県の歴史 · 527年の日本 · 528年の日本. 隠しカテゴリ:.

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日本と拓本
1884年明治17年)1月、情報将校として実地調査をしていた陸軍砲兵大尉の酒匂景信が参謀本部に持ち帰った資料の中に、好太王碑の拓本が含まれていた(「酒匂本」)。 その後、参謀本部で碑文解読に当たったのは文官である青江秀と横井忠直であり、これが倭の五王以前の古代日本を知る重要史料とわかったため、漢文学者の川田剛・丸山作楽・井上頼圀らの考証を経て、1888年明治21年)末に酒匂の名により拓本は宮内省へ献上された。 

好太王碑 碑文
倭に関する記述
399年
百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年
5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年
倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

日本の学会による解釈
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅新羅を破り、臣民となしてしまった。 

朝鮮民主主義人民共和国大韓民国の学会による解釈
諸説あり
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘連侵新羅以為臣民
新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に(高句麗に)来たので(高句麗は)海を渡り(倭を)破った。百残はそんな倭と連合して(高句麗の臣民である)新羅に攻め入った。(好太王は)臣民である(百残が)どうしてこんな事をしたのかと思った。 

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5世紀初の朝鮮半島地図

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