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つれづれなるままに日暮らし

平清盛のゆかりの地 児島

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倉敷市下津井

2013. 6.27
FUJIFILM FinePix HS30EXR
源平合戦平家物語ゆかりの地

もろともに みし世の人は 波の上に
面影うかぶ 月ぞ悲しき
平家の総大将、平行盛平清盛の孫、生誕年不詳~1185年
(元暦2年)没)が、源氏の大軍を迎え討つために布陣した
ここ田之浦で迎えた生涯最期の中秋の名月を詠んだ生涯
最期の歌。(玉葉和歌集 巻第十七 雑歌四)

  源平合戦ゆかりの地
   源平時代、四国の屋島を拠点に瀬戸内の制海権海上
   通路の支配等) を掌握していた平家は、  ここ下津井に城
   (下津井古城:下記) を築き、当時、吉備の穴海 (現、瀬戸
   内海)に浮かんでいた児島を、源氏の攻撃に対峙する前線

    拠点にしました。

   1182年、九州大宰府を経て、四国屋島(現、屋島東町) に
   行宮(あんぐう:行幸時、政変時などの仮宮)を置いた平家
   の主君、安徳天皇の御座船が下津井に入港。

   1183年、児島半島の西、高梁川の河口にある乙島、柏島
   の海峡で日食を利用した作戦により、平家が源氏に勝利。
   (水島合戦)

   1184年、十数隻の船団を組み、下津井港に攻めてきた反乱
   軍(源氏に寝返った阿波・讃岐の兵士)を平家が、下津井港
   沖で撃退。(下津井合戦)

   同年、本土と児島を隔てていた吉備の穴海(現、瀬戸内海)
   の浅瀬を馬で渡る作戦により、藤戸(現、倉敷市藤戸町)に
   陣を敷いていた平家に源氏が勝利。(藤戸合戦)

   同年秋、平行盛が、ここ田之浦 (当時、備前壇ノ浦) に布陣、
   源氏の大軍を迎え討ちましたが、 源氏方の武将、佐々木三
   郎盛綱に敗れ、屋島に逃れた後に壇ノ浦の合戦で討死。

  藤戸合戦と飽浦
   藤戸合戦時、藤戸の東対岸(現、岡山市南区飽浦辺り)に陣
   を敷いていた源氏方は、船が揃わなかった為に平家を攻め
   あぐねていましたが、一ヵ所だけ馬で対岸まで渡ることができ
   る海の道が在ると、近くの漁師から教わった佐々木三郎盛綱
   らが先陣をきり馬で対岸へ渡り、源氏方に大勝利を納めるき
   っかけをつくりました。(平家物語「藤戸の渡し」)
   この後、檀ノ浦の合戦に至ります。

   その功績として佐々木三郎盛綱は、将軍 源頼朝から児島全
   土と小豆島一帯に及ぶ広範囲な領地を与えられ、 佐々木氏
   一族は飽浦の地に居城(現、高山城跡 )を築き、 盛綱は、地
   名にちなみ 「飽浦三郎」と名乗りました。

   飽浦氏一族の守護神として奉斎した神である素盞嗚尊(スサ
   ノオノミコト)が、飽浦の素盞嗚神社に鎮座されています。

<参照>
岡山県神社庁
■ 神社紹介「素盞嗚神社 (御由緒)」
  下津井古城
   近世下津井城(現、下津井城跡 :1592年~1596年(文禄年間)
   宇喜多秀家が築城)の南に位置し、下津井港のほぼ中央へ
   迫り出した標高10mほどの小高い浄山(じょうやま)に築かれ
   ていました。(現、祇園神社 )

   源平合戦の時代は、平家が源氏の陸からの攻撃に対峙する
   ための砦とし、 南北朝時代には、九州から東進する途中の
   足利尊氏が千艘余りの軍船を率い、 この地に数日間滞在し
   ました。

   現在は、南側に道路が整備されていますが、当時は海岸に
   直接面して海を監視する絶好の場所に位置し、 大規模な
   構造ではありませんが、敵を寄せ付けない急崖に囲まれた
   地形を利用した要塞の面影を漂わせています。

  いにしえの児島
   当時、吉備の穴海(現、瀬戸内海)に浮かび、平家が源氏の
   攻撃に対峙する前線拠点とした現在の児島半島

   古事記奈良時代、712年編纂)に、「伊邪那岐イザナギ)・
   伊邪那美イザナミ)が、9番目に生んだ、吉備兒嶋(きびの
   こじま)」、日本書紀(720年編纂)に、「伊奘諾(イザナギ)・
   伊奘冉(イザナミ)が8番目に生んだ、吉備子洲(きびのこじ
   ま)」と記されている、いにしえのロマンに溢れた半島です。

   また、飛鳥時代の697年(文武天皇元年)に、大和国(現、奈
   良県)の葛城豪族の策略により朝廷から謀反の疑いをかけ
   られた修験道開祖である役小角 (えんのおづの、えんのお
   づぬ) の五大門弟が、紀州熊野本宮の御神体を捧持、聖地
   を求めて船で紀州を後にし、謀反の疑いが晴れた役小角
   赦免された 701年(大宝元年)、備前児島半島柘榴浜(ざく
   ろがはま:現、児島下の町・琴浦)へ上陸。熊野道(山道)を
   通り、福岡村 (現、倉敷市林) に熊野十二社権現 の御神体
   を安置、紀州熊野本宮を遷座しました。

   以来、修験道の本拠を児島に置き、 役小角の五大門弟が
   五流修験の始祖となって継承伝授、行法秘事等を正授。
   五院(尊瀧院 ・伝法院・太法院・報恩院・建徳院)を管長とす
   る公卿十院を合せた五流長床衆は皇室に尊崇され、 天皇
   皇族の熊野行幸 (詣で)の先達 案内) を勤め、740年(天平
   12年)に、崇敬厚い聖武天皇より、児島一円(備前国児島郡
   全土) を熊野神社神領として寄進されました。
<参照>
岡山の風 郷土史