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つれづれなるままに日暮らし

日本の轍

寺町通 5月15日(火) 第111回「〜文豪達の散歩道〜」

西国街道 4月3日(火) 第105回「西国街道 〜歴史を変えた舞台〜」

兵庫県神戸市を通る西国街道
この街道は歴史の節目とも言える重要な舞台となった。
1184年、街道近くにある生田神社では源平合戦が行われ、そして、その合戦の400年後には本能寺の変の一報を受けた羽柴秀吉明智光秀を討つため、この街道を大移動した。
西国街道、そこには新しい世の幕開けに繋がる『節目の轍』がありました。

生田神社—いくたじんじゃ
兵庫県神戸市に建つ生田神社は安産祈願・恋愛成就・縁結びの神様で知られる神社です。
1184年の2月には源平合戦の戦地となり、今も境内に残る『生田の森』に平 知盛を大将とする平家軍が陣を構えました。
戦は陣を置いた平家軍の背後から源 義経率いる騎馬隊が奇襲を仕掛け、源氏が勝利したといいます。

中国大返し—ちゅうごくおおがえし

備中高松城で毛利氏と戦の最中だった秀吉は、『本能寺の変』で織田信長が討死にしたとの一報を受けます。すると速やかに毛利氏と和睦を結び、明智光秀討伐の為、岡山から京都まで続く約200㎞の道のりを10日間で踏破します。
この時に秀吉は西国街道を駆け抜け、およそ4万の軍勢を引き連れた大強行軍は「中国大返し」と呼ばれています。
その後、羽柴秀吉明智光秀を討ち取り、天下統一へと乗り出しました。

  • 4月10日(火) 第106回「西国街道 〜文明開化の通り道〜」

兵庫県神戸市を通る西国街道
のどかな田舎道だったこの街道は神戸港の開港により大きく発展しました。
海外から新しい文化が押し寄せ、街道沿いには洋服店や牛肉店など西洋文化の店が立ち並び、街道を通じて多くの文化が日本各地へ広まりました。
西国街道、そこには神戸から全国へと繋がる『文明開化の轍』がありました。

神戸港—こうべこう
1868年に神戸港が開港すると、外国人居留地が設けられ、神戸は西洋の様々な文化や習慣を積極的に受け入れるようになりました。
洋服、洋菓子、ラムネ、ソース、西洋家具など、海外の文化の多くは、まず神戸で根付き日本各地へと伝播しました。

いにしえの文明開化
柴田音吉洋服店—しばたおときちようふくてん

神戸市にある柴田音吉洋服店は1883年に創業した老舗の洋服店です。
創業者の初代・柴田音吉は神戸の居留地で近代洋服のテーラーを営んでいたイギリス人に弟子入りします。その後、明治16年に独立すると日本人で最初のテーラーとして柴田音吉洋服店を開業しました。
近代洋服の普及に努め、過去には伊藤博文明治天皇のお召し物を仕立てたといいます。

大井肉店—おおいにくてん

神戸港の開港後、牛肉食文化の外国人が神戸に住むようになりました。
しかし、当時の日本では牛肉を確保するのは難しいことでした。そんな時、百姓だった創業者の岸田伊之助は外国船の船長に生きた牛の納入を依頼され、農業用の牛を納めました。これを機に牛肉の小売りを始めると、その美味しさは一般市民まで広がり、明治4年に神戸で初めて牛肉販売店を創業しました。
伊藤博文福澤諭吉などからも奨励され、牛肉食の文化は急速に広まっていったといいます。

西国街道—さいごくかいどう
兵庫県神戸市を通る西国街道
この街道沿いにある三宮神社前で、今から150年前に起きたのが神戸事件。
備前藩の隊列をフランス人水兵が横切ったことで起きた紛争は、新政府を揺るがす外交事件に発展しました。その騒乱を治めたのが当時26歳の伊藤博文でした。
西国街道、そこには伊藤博文が残した『功績の轍』がありました。

神戸事件—こうべじけん

1868年に起きた神戸事件は明治政府が初めて直面した外交問題です。
政府から西宮藩の警護を命じられた備前岡山藩の隊列が西国街道を東に向かって行進していた時の事です。
三宮神社の前にさしかかった際に、フランス軍水兵数人が隊列を横切ります。
これは当時の武士達にとって許されざる無礼な行為だった為、抑止しようとした備前藩隊員が小隊長・瀧 善三郎命令の下、発砲し銃撃戦となりました。
その結果、安全の確保を名目に神戸の居留地周辺は外国軍に一時占拠されるなどの国際問題へと発展しました。

伊藤博文—いとうひろぶみ
発足したばかりの新政府を襲った神戸事件は伊藤博文によって落着しました。
イギリスへの留学経験から英語も堪能だった伊藤博文は、事件を知ると真っ先にパークス駐日イギリス公使に駆け寄り会見を行います。外国側の要求を政府に進言すると、自らが新政府の外国事務掛となり、直接交渉を行いました。
その後、藩兵の発砲を命令した備前藩士・瀧 善三郎が事件の責任者として、兵庫の永福寺切腹し解決しました。
英語や外国人との交渉能力を生かし、事件の処理に実力を発揮した伊藤博文は神戸事件解決の3ヶ月後に兵庫県知事に任命されました。

  • 4月24日(火) 第108回「西国街道 〜漂う異国情緒〜」

西国街道—さいごくかいどう

兵庫県神戸市を通る西国街道
神戸港が開港すると、街道沿いでは中国の商人達による中華街『南京町』が発展しました。南京町では日本で初めて豚まんが販売され、100年以上経った今でも変わらず人々に愛されています。
西国街道、そこには時代を超えて愛される『味覚の轍』がありました。

異人館—いじんかん
1868年に神戸港が開港すると、多くの外国人が来住し、神戸には外国人居留地ができました。しかし次第に人口の増加で居留地の用地が不足した為、明治政府は東は生田川、西は宇治川の範囲で日本人との雑居を認めました。そこに外国人住宅である異人館が誕生しました。
現存する当時の洋館は今も住居や店舗として使用されています。

南京町—なんきんまち

神戸港の開港で、神戸には多くの外国人が移り住むようになりました。
しかし諸外国の中で中国は日本と国交の条約を結んでいなかった為、中国の商人達は外国人居留地に住むことが出来ませんでした。
そこで居留地の西側あたりに居を構え雑貨商、豚肉商、飲食店などを始めたことから中国人が多く住む南京町として次第に発展しました。
現在では中華料理店を中心に100軒近い店舗が軒を連ねています。

豚まんーぶたまん
南京町で日本初となる『豚まん』を販売したのが大正4年創業の老祥記です。
創業より変わらないという餡には、ミンチにした豚肉と青ネギが用いられ味付けは醤油のみで仕上げられます。
作家の谷崎潤一郎は、随筆の中に老祥記の豚まんを登場させるほどその味に惚れ込んでいたと言います。

  • 元祖豚饅頭 老祥記「大正4年創業。南京町の大行列ができる大人気の ...

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2018/01/21 - 大正4年創業。 南京町の大行列ができる大人気の豚まん屋さん✨ もっと西に『老祥紀』がありますが、別のお店です。 週末は1時間半待ちのときもあります。 この日は神戸そごうの地下1階で数量限定10個1包装のみ(ばら売りなし)特別販売を ...

関テレ (*)