www.google.com 尼崎市神崎町34−34 梅ケ枝公園内
現尼崎市神崎町付近は、古代から中世にかけて「神崎津(かんざきのつ)」と呼ばれ、湊として栄えました。遊女(遊君)がいたことでも知られており、平安後期の高名な学者・大江匡房が著書「遊女記」のなかで、神崎のことを上流の江口や対岸の蟹島(加島)とならぶ「天下第一の楽地」と評しています。当時の遊女たちは歌舞・音曲に通じた一種の芸能者であり、貴族たちとも宴遊を共にしました。
鎌倉時代初期の建永2年(1207)春、讃岐へ流される途中神崎に来た法然上人のもとを五人の遊女が訪れ懺悔し、念仏を授かり入水したという伝説が『摂津名所図会』などに記されています。神崎には元禄5年(1692)の銘のある石塔が今日まで残っており、入水した五人の遊女を弔った遊女塚であると伝えられています。
この神崎遊女の伝説に取材した近世後期の読本作者・上田秋成が、「宮木が塚」という遊女塚にまつわる物語を遺しており、秋成の著作『春雨物語』に収められています。
また尼崎市寺町の如来院の古縁起によれば、同寺の起源は法然上人が遊女たちを教化した遺跡の堂舎・神崎釈迦堂であり、のちに尼崎城下の大物、さらには寺町に移転したのが如来院であると伝えています。
神崎遊女をめぐるこれらの歴史と伝承について、『尼崎市史』第1巻をはじめとする各種参考文献により調べることができます。
鎌倉時代初期の建永2年(1207)春、讃岐へ流される途中神崎に来た法然上人のもとを五人の遊女が訪れ懺悔し、念仏を授かり入水したという伝説が『摂津名所図会』などに記されています。神崎には元禄5年(1692)の銘のある石塔が今日まで残っており、入水した五人の遊女を弔った遊女塚であると伝えられています。
この神崎遊女の伝説に取材した近世後期の読本作者・上田秋成が、「宮木が塚」という遊女塚にまつわる物語を遺しており、秋成の著作『春雨物語』に収められています。
また尼崎市寺町の如来院の古縁起によれば、同寺の起源は法然上人が遊女たちを教化した遺跡の堂舎・神崎釈迦堂であり、のちに尼崎城下の大物、さらには寺町に移転したのが如来院であると伝えています。
神崎遊女をめぐるこれらの歴史と伝承について、『尼崎市史』第1巻をはじめとする各種参考文献により調べることができます。
1 神崎遊女及び遊女塚について記した尼崎地域史の基本参考文献
◆『尼崎市史』第1巻
第3章第3節「平安時代の尼崎」及び第4章第1節「鎌倉時代の尼崎」に、大江匡房「遊女記」、藤原定家「明月記」などを引いて詳しく記述している。
◆『尼崎地域史事典』/Web版尼崎地域史事典"apedia"
項目「神崎遊君」「遊女塚」「如来院」
◆『図説尼崎の歴史』上巻/Web版『図説尼崎の歴史』
中世編第1節「この節を理解するために」及び1「神崎川流域の発達と港津(こうしん)」に記述あり。
2 神崎遊女を含む古代・中世の遊女についての参考文献
◆滝川政次郎著『遊女の歴史』『江口・神崎』(いずれも日本歴史新書)
◆『週刊朝日百科』531号「中世1-3 遊女・傀儡・白拍子」
3 如来院の縁起、神崎遊女との関わりなどについて記した参考文献
◆『尼崎志』第1篇寺院編
項目「如来院」
◆梅溪昇『法然上人遺跡 如来院の来歴と史料』
如来院に関する梅溪氏執筆の諸論考、関連史料類を集成したもの。
収録論文「法然遺跡寺院としての如来院の活動について」に神崎遊女塚の詳細な調査結果を掲載し、既存文献に記された碑文翻刻の誤り等を指摘している。
4 神崎遊女について記した同時代あるいは後世の著作物
◆大江匡房「遊女記」(『日本思想大系』8「古代政治社会思想」収録)
平安後期の高名な学者であった大江匡房が、神崎を評して上流の江口や対岸の蟹島(加島)と並ぶ「天下第一の楽地」としている。
◆上田秋成「宮木が塚」(『春雨物語』に収録、『日本古典文学大系』56「上田秋成集」)
神崎遊女塚に取材した近世後期の読本作家上田秋成が、遊女宮木を主人公として描いた物語。
◆秋里籬島編『摂津名所図会』巻6下 豊島郡・河辺郡
寛政年間(18世紀末)に編さんされた名所案内。
「遊女宮城墓、神崎の北一丁許、田圃の中にあり。村民傾城塚又女郎塚とも呼ぶ。(中略)後世尼崎如来院よりこゝに墓碑を建て、表には六字の名号、裏には遊女五人の名を鐫〔え〕る」と記す。
ただし前記の梅溪昇氏著作によれば、石塔背面に遊女の名が刻まれていた形跡はないとのことである。
◆『尼崎市史』第1巻
第3章第3節「平安時代の尼崎」及び第4章第1節「鎌倉時代の尼崎」に、大江匡房「遊女記」、藤原定家「明月記」などを引いて詳しく記述している。
◆『尼崎地域史事典』/Web版尼崎地域史事典"apedia"
項目「神崎遊君」「遊女塚」「如来院」
◆『図説尼崎の歴史』上巻/Web版『図説尼崎の歴史』
中世編第1節「この節を理解するために」及び1「神崎川流域の発達と港津(こうしん)」に記述あり。
2 神崎遊女を含む古代・中世の遊女についての参考文献
◆滝川政次郎著『遊女の歴史』『江口・神崎』(いずれも日本歴史新書)
◆『週刊朝日百科』531号「中世1-3 遊女・傀儡・白拍子」
3 如来院の縁起、神崎遊女との関わりなどについて記した参考文献
◆『尼崎志』第1篇寺院編
項目「如来院」
◆梅溪昇『法然上人遺跡 如来院の来歴と史料』
如来院に関する梅溪氏執筆の諸論考、関連史料類を集成したもの。
収録論文「法然遺跡寺院としての如来院の活動について」に神崎遊女塚の詳細な調査結果を掲載し、既存文献に記された碑文翻刻の誤り等を指摘している。
4 神崎遊女について記した同時代あるいは後世の著作物
◆大江匡房「遊女記」(『日本思想大系』8「古代政治社会思想」収録)
平安後期の高名な学者であった大江匡房が、神崎を評して上流の江口や対岸の蟹島(加島)と並ぶ「天下第一の楽地」としている。
◆上田秋成「宮木が塚」(『春雨物語』に収録、『日本古典文学大系』56「上田秋成集」)
神崎遊女塚に取材した近世後期の読本作家上田秋成が、遊女宮木を主人公として描いた物語。
◆秋里籬島編『摂津名所図会』巻6下 豊島郡・河辺郡
寛政年間(18世紀末)に編さんされた名所案内。
「遊女宮城墓、神崎の北一丁許、田圃の中にあり。村民傾城塚又女郎塚とも呼ぶ。(中略)後世尼崎如来院よりこゝに墓碑を建て、表には六字の名号、裏には遊女五人の名を鐫〔え〕る」と記す。
ただし前記の梅溪昇氏著作によれば、石塔背面に遊女の名が刻まれていた形跡はないとのことである。
参考資料 (Reference materials)
『尼崎市史』第1巻 昭和41年発行 (当館請求記号 219/A/ア-1)
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『尼崎地域史事典』 平成8年発行 (当館請求記号 219/A/ア)
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『図説尼崎の歴史』上巻 平成19年発行 (当館請求記号 219/A/ア)
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滝川政次郎著『遊女の歴史』 至文堂日本歴史新書 昭和40年発行 (当館請求記号 210.1/シ-119)
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滝川政次郎著『江口・神崎』 至文堂日本歴史新書 昭和51年発行 (当館請求記号 210.1/A/シ-123)
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遊女塚(ゆうじょづか)は、兵庫県尼崎市神崎町にある遊女の墓碑。 目次. 1 概要. 1.1 所在地. 2 歴史. 2.1 建立の背景. 3 小説; 4 交通アクセス; 5 脚注 ... 摂津名所図会』には「遊女宮城墓、神崎の北一丁許、田圃の中にあり。村民傾城塚又女郎塚とも呼ぶ。
岡山市 遊女塚
池田市 遊女塚
大阪市 遊女塚
東京都 遊女塚
日本国内 遊女塚
戸隠 遊女塚