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つれづれなるままに日暮らし

平野駅から今里へ平野川分水路を下る

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JR平野駅北口から北へ行くと平野川に両国橋がある。
摂津と河内の国境に架かっていたことからそう名付けられたという。

平野北公園付近の左岸沿いは春には桜並木になる。
西隣りの平野市町抽水所の排水口がある。
大雨時には下水をポンプ排水しており、川幅も広い。
分水路1.JPG
環状線に架かる平野川大橋の西側で平野川分水路と分かれる。
普段は分水路に河川水は落ちていない。
平野下水処理場の高度処理水の一部が分水路に導水されており、水質改善や維持用水になっている。
中桑原橋までは浅瀬で、コイなどが泳いでいる。
ところがその下流は深くなって透明度の悪い運河になる。

人道橋の上高室橋から西へ約300mの町角に横野神社跡と万葉歌碑がある。
横野神社はもとは「印色宮(いんじのみや)」と呼ばれ、延喜式内社とされる河内国渋川郡六座の一つだった。
現在は巽神社に合祀されている。
万葉集』には、
「紫の根 延ふ横野の春野には 君をかけつつ 鶯鳴くも(詠み人知らず)」と詠まれた。
また『日本書紀』仁徳13年の条に記された「横野堤」が付近にあったとされている。
太古はこの辺りの「橘川(古平野川)」の右岸にあたり、河水の氾濫と玉造江の潮流を防ぐために築かれたたと考えられている。

その北方には田島神社がある。
社記によれば、明治18年の淀川大洪水で古記録などが流失してしまったという。
境内には田島の地場産業として栄えることになった「眼鏡レンズ発祥の地」の石碑がある。

東方の田島小学校の北側から北へ延びる道は「竜崋堤」跡だ。
金子晋『美しい水都が見えた』では、これが「横野堤」としている。
ちなみにこの書は地図の等高線を基に自ら踏破して5世紀の「河内湖」の汀線を復元している。
鶴橋耕地整理事業でその高まりは失われているものの、田島工営所の西側を通る曲がりくねった道筋がその名残をうかがわせる。
この先、勝山通りの新大阪病院と難波寺の西側の道が「竜崋堤」跡で、今里筋中川2交差点手前までくねった道が続いている。

田島工営所から東へ分水路に戻ると、上丁之田橋の右岸下流に「加美巽川(神武川)」の合流口がある。
かつては「東の川」と呼ばれ、左岸側には「西の川」が流れていた。
その名残の空き地も残っている。

勝山通りに架かる巽橋の南西角には「平野川分水路改修之碑」がある。
平野川は堤防が低く川筋も蛇行していたために毎年のように洪水を繰り返していた。
そこで大阪市が昭和4年に平野川分水路城東運河)の開削に着工し、戦中の中断を経て昭和38年にようやく完成した。

平野川分水路は寝屋川流域の中で最も都市化が進んだ地域にあった。
地盤も低く、堤防の嵩上げされて人道橋や「太鼓橋」が多い。
北巽橋もそんな橋の一つだ。

左岸にある北巽小学校の北方から北西に延びる斜行道がある。
これが「西の川」跡だ。
その名残の細長い「西の川公園」(生野区新今里1)がある。

今里筋猪飼野橋交差点は「西の川」に架かっていたことの名残だ。
猪飼野橋交差点の南東角に鎮座している小社は、「柳丸竜王」とあるので水神を祭祀しているのだろう。

「西の川」は現在の剣(つるぎ)橋の北側で平野川に合流していた。
「剣先」のようであったことから「剣橋」と呼ばれたという。
今里ロータリー付近の地下鉄千日前線の工事中に大量の貝殻とともに約6000年前のミンククジラの骨が出土した。
現在は長居の市立自然史博物館に展示されている。
また北西200mの旧水道局今里営業所(東成区大今里西1丁目)裏側の下水道工事中に、地下約2mからクスノキを刳り抜いた全長約12mの「丸木舟(まるきぶね)」が出土した。
奈良時代のもので、船尾付近に「杭」が残されていたことから船着場につながれていたと考えられている。
約6000年前はこの付近は「河内湾」の入江になっていた。
次第に「河内潟」となり、丸木舟で魚などを獲った古代人の暮らしぶりがうかがえる。
「今里」は、海が干上がって「今」は人が暮らす「里」になったことから呼ばれるようになったという。
明治18年の淀川大洪水ではかつての「河内湾」だったところが水没し、今里付近では水深3m近くまで達したという。

-明治18年の淀川大洪水では今里付近では水深3m近くまで水没

参考:
大阪府
平野川の浄化用水導入事業
http://www.pref.osaka.jp/ne/kankyo/hirano.html

金子晋『美しい水都が見えた』(平成23年)

猪飼野郷土誌』猪飼野保存会(平成9年)

『大阪春秋 平成20年春号 NO130』新風書房(平成20年)に所収
辻尾榮市「大阪市東成区大今里出土の刳舟」
樽野博幸「今里を鯨が泳いだころ」