altgolddesu’s blog

つれづれなるままに日暮らし

奥州藤原氏

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「分断と対立」から「融和と共存」へ
奥州藤原氏が描いた今日への伝言〜

万葉集にも出てくる陸奥(みちのく)は、自然が美しく、厳しい。その美しさと厳しさが、人々の心の底に「共に生きる」「支えあって生きる」との思いを、植えつけたのだろうか。

この地で、古代から北海道へかけて住んでいた蝦夷(えぞ)の人々は、近畿の大和朝廷服従せず、戦乱が幾度も繰り返された。
平安時代には、豪族たちが「分断と対立」を重ね、ときに殺戮も行われた。だが、陸奥の人々の心の底に置かれた「分断ではなく融和し、対立ではなく共存を」との思いは生き続け、奥州藤原氏三代によって、平泉の地に姿を現す。敵も味方もない、人も鳥も虫も誰もが同じように極楽浄土へいくことができる。その浄土思想は、いま、テロやヘイトスピーチに代表される「分断と対立」の世界を、「融和と共存」の希望の社会へ変えようという理想と重なる。奥州藤原氏三代のこの思いを、今日への「伝言」として、平泉の地を巡る。

中尊寺(ちゅうそんじ)
多くの参拝客・観光客が訪れる金色堂、ここには、いまも藤原三代の「遺体」が眠っています。それは、初代・清衡が強く望んだことでした。村上さんは金色堂を訪ね、その理由を探ります。また、清衡が読み上げたという「供養願文」をひも解き、その真意にも迫ります。ほかに、毎年7月17日に行われる清衡供養会や讃衡蔵(さんこうぞう)と名付けられた宝物殿にある藤原三代ゆかりの品々もご紹介します。

中尊寺(ちゅうそんじ)
多くの参拝客・観光客が訪れる金色堂、ここには、いまも藤原三代の「遺体」が眠っています。それは、初代・清衡が強く望んだことでした。村上さんは金色堂を訪ね、その理由を探ります。また、清衡が読み上げたという「供養願文」をひも解き、その真意にも迫ります。ほかに、毎年7月17日に行われる清衡供養会や讃衡蔵(さんこうぞう)と名付けられた宝物殿にある藤原三代ゆかりの品々もご紹介します。

毛越寺(もうつうじ)
初代・清衡を継いだ二代・基衡が、平泉の表玄関にあたる地に開きました。美しい浄土庭園は、いまも当時の姿を伝えています。基衡が建立した当時の本尊は玉眼の薬師如来。これは「現世での救済」を目指したことの表れ、と考えられています。「曲水の宴」(ごくすいのえん)という古式ゆかしい行事が、華やかだった往時を偲ばせてくれます。

骨寺村(ほねでらむら)
中尊寺の荘園だった骨寺村には、当時と変わらぬ田が残っています。12月には、収穫した米を中尊寺に納める行事も行われています。

無量光院跡(むりょうこういんあと)
三代・秀衡の時代を迎え、平泉は京都の平安京に継ぐ「日本第二の都市」と言われたほどの町として完成します。秀衡が最も思いを込めたのが、京の平等院鳳凰堂を模したとされる無量光院の建立です。背後の金鶏山は、清衡が富士山を模してかたどらせた山で、山頂に経典を埋めていました。毎年2回、この山頂に夕日が沈む様は、まさに極楽浄土が現れたような美しさです。

川西大念仏剣舞(かわにしだいねんぶつけんばい)
前九年合戦、後三年合戦と二つの戦いを経験した初代・清衡が、戦で命を落とした人々を供養するために始めさせたとされる伝統芸能です。「イカモノ」(怒れる者の意)と呼ぶ亡霊たちが、釈迦の化身「サルコ」によって鎮められ、極楽浄土へと導かれる物語を舞いによって表現します。

盂蘭盆(うらぼん)
先祖の霊が帰ってくるとされるいわゆるお盆ですが、平泉では独特の形で先祖をお迎えし、お送りしています。家々で行われているお盆の風景を紹介します。

二十日夜祭(はつかやさい)
毛越寺で毎年1月20日に行われる伝統の祭りで、僧侶の間で代々口伝で受け継がれてきた「延年の舞」が披露されます。平泉に生きる人々にとって、とても大切な行事です。

奥大道 (おくのたいどう) 奥州藤原氏

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2010/10/24 - 東北の道 概説(その1 古代)(10年10月23日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(10年10月24日) 東北の道 概説(その3 ... 藤原清衡が奥州の覇権を掌握して最初に手掛けたのは、白河関から外が浜(陸奥湾)にいたる幹線である奥大道の開発整備である。 ... 藤原氏の影響力は奥大道を通じて、糠部・久慈・閉伊から、鹿角・比内、そして津軽四郡(平賀、鼻和、田舎、山辺)、外が浜、西が浜、さらには夷が ...

下野国内の奥大道ルート

奥州の最北外が浜(そとがはま)(青森県陸奥湾)を結んだ幹線交通路奥大道(おくのだいどう)

古代の東山道

BS朝日 (*)

坂上田村麻呂から、藤原清衡まで200年

藤原清衡と名乗って、以後100年におよぶ奥州藤原氏の栄華(清衡、基衡、秀衡、泰衡で滅ぶ)

歴史の大河
www.do-be.jp/hiraizumi/hiraizumi_rekishi.html
中央政府蝦夷支配下に置くべく、奈良時代後期から平安時代初期にかけて征夷大将軍坂上田村麻呂率いる軍を送り、 ... マルコ・ポーロの「黄金の国」への憧れは、それから200年後、1492年のクリストファー・コロンブスの探検、世界大航海時代へと繋がる。 ... 平泉関連記録も治承4年から宝治2年(1248年)までの長期にわたるが、源頼朝が泰衡(藤原4代)を滅ぼした文治5年(1189年)の ..... 父親・亘理経清の姓を受け継ぎ、藤原清衡と名乗って、以後100年におよぶ奥州藤原氏の栄華(清衡、基衡、秀衡、泰衡で滅ぶ) ...

坂の上の田村麻呂 藤原清衡奥州藤原氏の 祖 中尊寺を 建立 について綴っ ...
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp › 教養と学問、サイエンス › 歴史 › 日本史
第四巻が清衡を主人公として、後三年の役から平泉藤原氏の成立までを描いています。当然中尊寺建立についても触れ ... 坂上田村麻呂蝦夷アテルイ阿弖流為)の戦いを、アテルイ蝦夷の視点から描いている作品です。この作品以降、阿弖流為が舞台・ ...

坂上田村麻呂* 蝦夷 アテルイ*(阿弖流為源頼朝*