811年、10月、坂上田村麻呂の墓地として、「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、陸田(畑)、山を与える」と記されていた。(「太政官符」)
1973年、10月、歴史考古学研究家・鳥居治夫は、西野山古墓を田村麻呂の墓と推定している。(『近江』)
2007年、6月、京都大学大学院准教授・吉川真司は、文献調査により田村麻呂墓は、西野山古墓の可能性が極めて高いと特定した。
奈良時代-平安時代の武将・坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ、758-811)。奈良時代の武将・坂上苅田麻呂(かりたまろ)の二男。百済系渡来氏族・漢氏の一族。780年、近衛将監、791年、近衛少尉のまま征東副使の一人として参戦し、793年、陸奥国の蝦夷との戦いで戦功を上げた。
795年、京都に凱旋した。近衛少将・木工寮の木工頭、796年、陸奥出羽按察使・陸奥守、鎮守将軍になる。
797年、第50代・桓武天皇は、征夷大将軍に任じた。東北経営、平定に関わる。
798年、清水寺に仏殿を造る。801年、桓武天皇より節刀を贈られ、4万の兵を率いて戦い、勝利し帰京した。従三位、近衛中将になる。802年、胆沢城を築く。造胆沢城使の時、蝦夷の族長・阿弖流為、 盤具母礼らが投降する。阿弖流為らを伴い入京した。後に2人は処刑される。803年、造志波城使として志波城を築城し、804年、再び征夷大将軍に任じられた。造西大寺長官を兼ねた。805年、参議、3度目の遠征は中止になる。807年、右近衛大将に任じられ、清水寺を創建した。810年、第51代・平城上皇と第52代・嵯峨天皇が対立した平城太上天皇の変(薬子の変)では、嵯峨天皇の側につき、上皇の東国行きを止めた。中納言、兵部卿などを経て、810年、正三位大納言まで昇る。粟田の別業(東山区粟田口)で亡くなる。贈従二位。娘・春子は桓武天皇の後宮に入り、葛井親王を産んだ。
死後、栗栖野で葬儀が営まれたといわれ、嵯峨天皇の勅により、甲冑、剣、弓矢をつけた姿で棺に納められた。平安京に向かい、立ったまま埋葬されたという。国家に危急ある時、塚の中で大きな音がしたといわれる「将軍塚鳴動」の伝承がある。
墓地は、現在地の宇治郡栗栖村(山科区栗栖野)、西野山古墓(山科区西野山)、東山山頂の将軍塚(東山区)にも葬られたとされ伝説化した。