altgolddesu’s blog

つれづれなるままに日暮らし

砂の器

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5月12日の早朝、国電蒲田操車場内にて、男の殺害死体が発見された。前日の深夜、蒲田駅近くのトリスバーで、被害者と連れの客が話しこんでいたことが判明するが、被害者のほうは東北訛りのズーズー弁で話し、また二人はしきりと「カメダ」の名前を話題にしていたという。

夫婦二人で、砂の底の閉じ込められて

  • 書籍レビュー: 砂穴の中にいるのは私達だった 『砂の女』 著: 安倍公房

永井荷風 散策 昭和20年 夏 岡山を歩く( , )

<三門神社>

<岡山から勝山へ (谷崎潤一郎を訪ねる)>
 荷風は昭和20年8月13日から15日にかけて当時岡山県勝山に疎開していた谷崎潤一郎を訪ねています。「断腸亭日乗」の昭和20年8月を参照します
「…八月十三日、未明に起き明星の光を仰ぎつゝ暗き道を岡山の停車場に至るに、構内には既に切符を購はむとする旅客雑還し、午前四時札売場の窓に灯の点ずるを待ちゐたり、構外のところぐには前夜より来りて露宿するもの亦砂からず、余この光景に驚き勝山往訪の事を中止せむかと思ひしが、また心を取直し行列をつくれる群集に尾して仔立する事半時間あまり、思ひしよりは早く切符を買ひ得たり、一ケ月おくれの孟蘭盆にて平日より汽車乗客込み合ふ由なり、余は一まづ寓居に戻り朝飯かしぎこれを食して後、再び停車場に至り九時四十二分発伯備線の列車に乗る…」
 キップを買うだけで大変です。岡山から伯備線で新見まで乗り、姫新線に乗り換えて勝山までいきます。岡山発9時42分で13時半頃に勝山に到着しています。

谷崎潤一郎が勝山で疎開していた割烹「小野はる」(現在の旦酒屋さん)です。谷崎潤一郎は、終戦直前の昭和20年7月、戦火を逃れて勝山へ疎開。最初、割烹「小野はる」の離れに住み、その年の暮れには旅館「今屋」に転居。翌年京都に引き上げるまで約八か月間、勝山に滞在していました。勝山滞在中の谷崎潤一郎は、旭川河畔の散歩を楽しみ「今屋」の二階の書斎で「細雪」の下巻を書き上げました。割烹「小野はる」は現在は旦酒屋さんになっていました。

谷崎潤一郎の津山、勝山を歩く

その頃、横溝正史総社駅から一駅先の清音駅近くに疎開していました。