1917年(大正6年)9月16日から、死の前日の1959年(昭和34年)4月29日まで、激動期の世相とそれらに対する批判を、詩人の季節感と共に綴り、読み物としても、近代史の資料としても、荷風最大の傑作とする見方もある。
昭和20年3月9日夜半のいわゆる東京大空襲によって偏奇館を焼き出された荷風は、従弟の大島五艘を頼って身を寄せたりするが、やがて東京に居ることに危険を感じ、友人の菅原明朗夫妻と共に岡山へと逃避する。それまでに書き溜めた断腸亭日乗29巻は五艘に預けた。五艘はそれを御殿場にある友人の邸に保存した。五艘自身の家もやがて消失するから、断腸亭日乗は危機一髪で助かったわけである。
岡山に着いた荷風は、倉敷から伯備線で入ったところにある勝山というところに、谷崎潤一郎が疎開していることを知って、はがきで挨拶をしたところ、谷崎から返事と共に色々な品物が贈られてきた。
8月6日には広島に原爆が落とされ、岡山の人々は戦々恐々になった。岡山にも落されるかもしれないと、恐れたのである。東京を焼け出され、また行く先々でも空襲の恐怖に慄いていた荷風は、思い切って勝山の谷崎を訪ねることにした。荷風は安全な勝山で、できたら疎開生活を続けたいと思ったのである。
谷崎潤一郎は、荷風を師として生涯礼を尽くした。そんな谷崎の厚情に荷風は一時甘えようとしたのだろう。着の身着のままといった状態で単身列車で勝山に向かった。それが8月13日のことである。しかし荷風は翌々日の15日に、早くも岡山に帰ってきてしまう。いくら非常の時とはいえ、谷崎に甘えることができなかったのだと新藤は言っている。