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つれづれなるままに日暮らし

天照大神(あまてらすおおみかみ) 大日如来 太陽神

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女神
日本書紀』ではスサノヲが姉と呼んでいること、アマテラスとスサノオの誓約において武装する前に髪を解き角髪に結び直す、つまり平素には男性の髪型をしていなかったことに加え、機織り部屋で仕事をすることなど女性と読み取れる記述が多いこと、後述の別名に女性を表す言葉があることなどから、古来より女神とされている。また一般に大和絵や宗教、日本人が最初に神代の時代を知る小中学校の社会科などでも女神として表されるのが主流である。言語学的には別名「オホヒルメノムチ」の「オホ」は尊称、「ムチ」は「高貴な者」、「ヒルメ」は「日の女神」[9]を表す。『日本書紀上』岩波書店の注も参照のこと[10]。
また、イザナギイザナミの子のうち、三貴子の兄として(『古事記』ではイザナギイザナミの最初の子として)「ヒルコ(日ル子)」という男子が生まれている(三年たっても足がたたなかったため、遺棄されてしまった)が、「ヒルコ(日ル子)」と「ヒルメ(日ル女)」の男女一対の言葉の対象性は、「ヒコ・ヒメ」、「ヲトコ・ヲトメ」、「イラツコ・イラツメ」など、古い日本語に伝統的に見られるものでもあり、名前からも女神ととらえることが順当である[11]。後述するように中世には仏と同一視されたり、男神とする説も広まった[12]が、『日本書紀上』日本古典文学大系男神説を明確に否定している。
天照大神は太陽神としての一面を持ってはいるが、神御衣を織らせ、神田の稲を作り、大嘗祭を行う神であるから、太陽神であるとともに、祭祀を行う古代の巫女を反映した神とする説もある[13]。ただし、日本語においては「メ」は「女」をさす音であり(ヒメ、ウズメ、ナキサワメなど)、女神の名で「メ」を「妻」「巫女」と解釈する例はないともいわれる[14]。
天照大神のモデルは淮南子山海経などに出てくる東海の海の島(日本)に住んでいる十の太陽神の母である義和が該当するとする説もある。[15] 淮南子の冒頭と日本書記の冒頭が重なる部分が存在する事から記紀の執筆者が淮南子を読んでいたのは間違いないとされる。[16]
また最高神アマテラスの造形には、女帝の持統天皇(孫の軽皇子がのち文武天皇として即位)や、同じく女帝の元明天皇(孫の首皇子がのち聖武天皇として即位)の姿が反映されているとする説もある[17]。安本美典など邪馬台国東遷説を主張する論者は、天照大神邪馬台国の女王卑弥呼が神話化されたものと考える者が多い。
兵庫県西宮市の廣田神社天照大神の荒御魂を祀る大社で、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)という祭神名のまたの名が伝わる。これは天照大神を祀る正殿には伝わらない神名であるが、荒祭宮の荒御魂が女神であることの証左となっている。  

近代
1880年明治13年) - 1881年明治14年)、東京の日比谷に設けた神道事務局神殿の祭神をめぐって神道界に激しい教理論争が起こった[26]。神道事務局は、事務局の神殿における祭神として造化三神天之御中主神高御産巣日神神産巣日神)と天照大神の四柱を祀ることとしたが、これに対して「出雲派」は、「幽顕一如」(あの世とこの世との一体性)を掲げ、祭神を「幽界」(あの世)を支配する大国主大神を加えた五柱にすべきだと主張した[26]。
しかし、神道事務局の中心を担っていた「伊勢派」は、天照大神は顕幽両界を支配する「天地大主宰」であり、他の神々はその臣下にすぎないと主張するなど、両派は真っ向から対立した[26]。果てには、「出雲派が神代より続く積年の宿怨を晴らさんとしている」「皇室に不逞な心を持っている千家尊福を誅殺すべし」など、様々な風説が飛び交った。やがてこの論争は明治天皇の勅裁により収拾(出雲派が敗北)し、天照大神の神格は最高位に位置づけられることになった[26]。
なお、政府は神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したと言われている[27]。
芥川龍之介は自身の小説にて天照大神を登場させる際、「天照大神」と言う呼称では皇祖神をそのまま文中に登場させてしまう事になるため、太陽神、それも自然神という性格付けで別名の「大日孁貴」(おおひるめむち)を用いた。実際、芥川の小説には検閲によって訂正・加筆・削除を強いられた箇所が多数存在する[28]。
日本全国の神社本庁傘下の神社で皇大神宮天照皇大神宮)の神札(神宮大麻)を頒布している[29]。

天岩戸神社西本宮
中国で活動していたイギリスの宣教師ジョセフ・エドキンスは、「アマテラス」の名がミトラスに由来するとした[30][31]。

天照大神を祀る神社
天照大神を祀る神社を神明神社といい全国各地にあるが、その総本社は神宮(伊勢神宮)の内宮(皇大神宮)である[2][7]。皇大神宮三種の神器のうちの一つ八咫鏡(ヤタノカガミ)を御神体として安置する神社である。
宮崎県高千穂町岩戸には岩戸隠れ神話の中で天照大神が隠れこもったとされる天岩戸と天照大神を祀る天岩戸神社がある。 東本宮は天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)を祀り、西本宮は大日孁尊(おおひるめのみこと)を祀る。
日前神宮國懸神宮日前神宮の祭神である日前大神天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる。
伊雑宮 三重県志摩市磯部町 皇大神宮伊勢神宮内宮)の別宮の一社。度会郡大紀町瀧原宮とともに「天照大神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれる。
瀧原宮瀧原竝宮 三重県度会郡大紀町 ともに天照大御神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)を祀る別宮。瀧原宮はその和御魂(にぎみたま)、瀧原竝宮は荒御魂(あらみたま)が祀られるとされる。
日向大神宮 京都市山科区日ノ岡 
廣田神社 兵庫県西宮市 天照大神の荒御魂を祀る。旧官幣大社日本書紀にも記される。
皇大神社 (福知山市) 京都府福知山市大江町
山口大神宮 山口県山口市
大日霊貴神社 秋田県鹿角市八幡平
八倉比売神社 徳島県徳島市国府町矢野 社伝に御祭神・大日孁尊天照大神)の葬儀の様子が記されている。
籠神社 [32] 天照大神と御孫神 彦火明命(饒速日命ニギハヤヒ )祀る。 元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称される。

全国の天照大神伝承

天岩戸神話の天照大神春斎年昌画明治20年(1887年))
天照大神の伝承は各地に存在する。
木曽山脈の恵那山には天照大神誕生の際に、胞衣(えな)が埋設されたという伝承が残る[33]。
長野県戸隠山戸隠神社には天岩戸の伝承が残る[13]。
三重県のめずらし峠は、天照大神天児屋根命が出会われたという伝承が残っている[34]。
奈良県長谷寺の隣の山、與喜(よき)山には天照大神が降臨された伝承が伝わっている[35]。
島根県隠岐天照大神行幸の際、そこに生育していた大木を「おおき」と感動して呼ばれたことが隠岐の名の起源であるという伝承が残る[36]。
鳥取県因幡の八上郡 (鳥取県)には、天照大神がこの地にしばらくの間行宮する際、白兎が現れて天照大神の裾を銜(くわ)えて、行宮にふさわしい地として、現在も八頭町と鳥取市河原町の境にある伊勢ヶ平(いせがなる)にまで案内し、そこで姿を消したとされる[37]。八頭町の青龍寺の城光寺縁起と土師百井(はじももい)の慈住寺記録には、天照大神が国見の際、伊勢ヶ平付近にある御冠石(みこいわ)に冠を置かれたという伝承が残っている[37]。この伝承と関連して八頭町に3つの白兎神社が存在し、八頭町米岡にある神社は元は伊勢ヶ平にあった社を遷座したものと伝えられるが、天照大神の具体的な伝承に基づく全国的に見ても極めて珍しい神社である。
同じく鳥取県八上の氷ノ山(ひょうのせん)の麓、若桜町舂米(つくよね)には天照大神が大群を従えての行幸伝承とともに、天照大神御製の和歌が伝わっている[38]。2007年(平成19年)、若桜町舂米地区内で天照大神が腰掛けをされたさざれ石が発見された[39]。
氷ノ山の名は、天照大神樹氷の美しさに感動され日枝(ひえ)の山と呼ばれたことが起源とされ、氷ノ越えの峠(ここにもかつて白兎を祀る因幡堂があった)を通って因幡をあとにしたとされる[40]。
現在は存在しないが、熊本県八代市には上古に天照大神の山陵が在ったと伝えられる[41]。
宮崎県高千穂町岩戸にあり天照大神を祭神とする天岩戸神社の周辺には、岩戸隠れ神話の中で天照大神が隠れこもったとされる天岩戸をはじめ、複数の神話史跡や関連の地名が残る。

淮南子*