かつて山城国山崎–橋本間(現在の京都府乙訓郡大山崎町–八幡市橋本間)で淀川に架かっていた橋
たびたびの洪水で流され、嘉祥3年(850年)にも架橋の記録はあるものの、11世紀にはいったん廃絶。豊臣政権下で一時復活された。その後失われてからは現在に至るまで再建されていない。
橋が失われた後は1962年まで渡船が運行されていた。
- 山崎の渡し(京都府大山崎町〜京都府八幡市):淀川の両岸を結んでいた渡船。 日本の渡船
約2km上流に京都府道・大阪府道13号京都守口線の御幸橋がある。
大山崎側の付近の小川に「新山崎橋」が架かっており、これはバス停の名前にもなっている。
京滋バイパスのルート選定に当たっては「山崎橋の復活は町の悲願」として誘致活動が行われた。
橋本側の久修園院(くしゅうおんいん)と山崎側の山崎院はともに行基四十九院の一つであるが、山崎橋の維持管理をする役目も持っていたらしい。
山陽道については、927年に編纂された『延喜式』には、山城国の山崎駅
- 古代山陽道
- 中世山陽道
「やましろ」は、古くは「山代」と記され、7世紀に「山背国」
歴史街道 (*) 山城国府(河陽国府)
山崎橋*|街道*