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つれづれなるままに日暮らし

津島周辺における中世の山城の分布と街道

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ノロ山城,船山城,妙見山城,半田山城,鳥山城,蜂矢城,山崎城などが中世山陽道沿い 

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17.pro.tok2.com ⇩図面は明治28年に発行の地図

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山陽道は三石から備前一宮(吉備津彦神社付近)までの間は時代によって経路が異なっているのである。

◆古代(原始)の山陽道 は三石から吉永・和気・熊山・万富を通り、瀬戸から備前一宮まで南西方向に直線的に繋がるコースで途中、国分寺を通る。
◆中世の山陽道
 備前国分寺までは古代と同じで、国分寺を過ぎてから、太戸から南にむかい向山・地蔵・矢津の峠道を経て、土田でこんどは右に折れ、真西の方向を変えて、高島の北の備前国府の中心を通って備前一宮に達するコースをとる。
◆近世の山陽道
は三石からすぐに北にむかい八木山を越えて木谷・伊里から港がある片上を通り、備前焼のまち伊部・香登を抜け、岡山市内に入り、市内から北西方向に備前一宮に向かうコースとなっている。

16世紀末にいたり、宇喜多秀家岡山城下の整備にともなって、道筋は城下に引き込まれる形でさら変化をとげる。そして池田氏があらたに入封して後は、

庭瀬往来(庭瀬・鴨方を馬継所として笠岡にいたる)、

津山往来(作州津山にいたる)、

倉敷往来(作州倉敷にいたる)、

下津井往来(備前下津井にいたる)、

和気往来(備前和気にいたる)、

牛窓往来(備前牛窓にいたる)など、

六つの往来が城下を起点として放射線状にのびるようになっていった。「備前国備中国筋井灘道舟路帳」(池田家文庫)では、

山陽道を「大道」、上の六つの往来を「小道」、その他を「灘道」と区別している。 

「備前国・備中国筋井灘道舟路帳」(池田家文庫) - Google 検索 

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