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つれづれなるままに日暮らし

ウルグ・ベク天文台跡

1420年代に建設され、中世イスラム世界において有数の天文台

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かつての天文観測所の想像復原図と、断面図 建物の直径46m、高さ30m、
(From "Samarkand" by Alexey V. Arapov, 2004, SAN'AT)
太陽光線を取り入れる孔が南側。この建物のほかにも多くの観測儀があったろう。

サマルカンドのウルグ・ベク天文台跡 1420年 
1951年の発掘時に、建物のプランが レンガで復原された。
リワーク状の入り口部の奥のヴォールト状の部分が、四分儀後半部の現状屋根である。

地下のアーチ部分。ウルグ・ベクの時代には、壁は研磨した大理石

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今は巨大な六分機の地下の一部分しか残っていない。六分機は地上にも伸びていたと思われ、その全体を半径46m、高さ30mの建築物が覆っていた。
天頂儀の半径は約 40m、円弧は 63mあり、メインの六分儀は、外部からの太陽光を取り込んで、驚くべき正確さで子午線を指し示していた。

「ウルグベクの天文表」(1437年作成)

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太陽の南中を決定するための観測施設を発見した。幅2mの溝が子午線に沿って丘の地下に掘られており、溝は地中でアーチ状になっていた。今日では、天文台の位置には元の構造を示す円形の基礎部分と扉が有り、扉はファフリー (Fakhrī) の六分儀の地下部分へとつながっており、この部分には屋根がついている。六分儀は全長11mであり、かつては周りの三層構造の一番上にまで達していたが、地震から保護するため地中に配置されていた。半径は40.4mであり、当時としては世界最大の象限儀 (四分儀) であった。中世トルコの天文学者によれば子午線弧の半径は約50mであり、イスタンブルにあるハギア・ソフィアモスクのドーム部分と同じ高さであったとされている。建物の全高は21m、敷地は南北170m、東西85mに渡っていた〔。天文台では精密な天球儀アストロラーベを用いた太陽、月及びその他の天体の観測が行われており、サマルカンドで働いていた天文学者子午面上の太陽の高さと天頂赤緯からの距離を用いて毎日の正午の正確な時刻を計算することができた。

1260~1270年代に価値のある三角関数表を作成したにおいて作成されたイルハン朝時代の星表を更新した。には改良された惑星のパラメータと1,018個の星の座標の位置が記載されていた。これはプトレマイオスアル・スーフィーの仕事の単なる更新ではなく、天文台における独自の観測に基づいていた。実際、ウルグ・ベクと天文台勤務の学者たちは「赤緯赤経を用いた恒星の位置の決定」の冒頭部分において、単なる更新では見られないはずの多くの不正確な計算を行なっている。

ウルグ・ベク天文台で行われたこれらの発見や研究は当時の天文学者にとって日食を予測し、日の出や天体の推移の時刻を計算する上で極めて重要なものであり、彼らは恒星年 (一年の長さに相当) を365日6時間10分8秒と計算した。これは約600年後の現代の計算によって得られる数値である365日6時間10分9.6秒と約2秒しか違わないという精確さであった。

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ウルグ・ベク天文台で行われたこれらの発見や研究は当時の天文学者にとって日食を予測し、日の出や天体の推移の時刻を計算する上で極めて重要なものであり[7]、彼らは恒星年 (一年の長さに相当) を365日6時間10分8秒と計算した。これは約600年後の現代の計算によって得られる数値である365日6時間10分9.6秒と約2秒しか違わないという精確さであった[8]。1449年に天文台は破壊されたが、その後も約75年間に渡ってサマルカンド天文学の研究が続けられ

 

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ウルグ・ベク

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