altgolddesu’s blog

つれづれなるままに日暮らし

茨田堤(まむたのつつみ/まんだのつつみ/まぶたのつつみ)

Google 地図 (*)

茨田堤 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/茨田堤
茨田堤(まむたのつつみ/まんだのつつみ/まぶたのつつみ)は、仁徳天皇(オオササギ王)が淀川沿いに築かせたとされる堤防である。 経緯[編集]. 『日本書紀仁徳天皇11年10月の記事に、「天皇は、北の河の澇(こみ)を防がむとして茨田堤を築く(天皇は洪水や ...

茨田堤(まんだのつつみ)/寝屋川市ホームページ
www.city.neyagawa.osaka.jp › ... › 文化スポーツ室 › 文化財 › 名前でさがそう文化財
2016/04/21 - 『日本書紀』の仁徳天皇11年には、淀川に日本で最初といわれる「茨田堤」が築かれ、築堤に大変苦労したことが次のように記載されています。

この工事は非常に難しく、2か所の切れ目をどうしてもつなぐことができません。天皇はたいへん心配していたところ、ある日夢の中に神が現れて「武蔵人強頸(こわくび)と河内人茨田連衫子(まんだむらじころものこ)の二人を川の神に供えると、堤はできあがるだろう。」と言いました。

さっそく天皇は二人を探すように命じ、探し出された二人のうち強頸は泣く泣く人柱となり、堤の1か所はこうしてつながりました。
しかし、衫子は「私は二つのひさご(ひょうたん)を持ってきた。私を望んでいるのが真の神であるならば、これを流しても沈んでしまって、浮かばないだろう。もしも浮いて流れるのなら偽りの神だから、私は人柱になることはできない。」と言って、ひさごを流しました。すると急に旋風が起こり、ひさごを沈めてしまったと思うとすぐに浮き上がり、下流へ流れて行ってしまいました。

衫子は知恵を働かせたので人柱にならずにすみ、無事堤を完成させました。2か所の切れ目は強頸絶間(こわくびたえま)・衫子絶間(ころものこたえま)とよばれてきました。

仁徳天皇13年(『日本書紀』)には茨田屯倉(まんだのみやけ)が設けられ、この地域一帯が朝廷によって管理・運営されたことが記されています。

古事記』には、「秦人(はだびと)を役(えだ)ちて茨田堤及び茨田屯倉を作れり」と記しています。秦人とは渡来人のことで、渡来人によって大陸の優れた土木技術が用いられ、完成することができたのでしょう。

淀川のそばに「太間」と書いて「たいま」と読む地名があります。これは「絶間」がなまってこのようによばれるようになったといわれています。当地では、この難工事の物語が伝説として語り継がれています。

昭和49年(1974)に「淀川百年記念」事業に関連して淀川堤防上に碑が建てられました。淀川の方を向いた表面に「茨田堤」と彫られ、その脇には「まむたのつつみ」と添え書きされています。

伝茨田堤 大和田駅