文化大革命(ぶんかだいかくめい)とは、中華人民共和国で1966年[2]から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた、毛沢東主導による革命運動である。
全称は無産階級文化大革命(簡体字: 无产阶级文化大革命, 繁体字: 無產階級文化大革命)、日本語の略称は文革(ぶんかく)。
名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治・社会・思想・文化の改革運動だった。
実際は、大躍進政策の失敗によって国家主席の地位を劉少奇党副主席に譲った毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生運動を扇動して政敵を攻撃させ、失脚に追い込むための、中国共産党内部での権力闘争だった。
それを毛自身が学園闘争やベトナム戦争、反=スターリニズム、反=米国、反=帝国主義などに沸騰する世界と巧みに結びつけた。それにより毛沢東自身の著書「The little red book(毛沢東語録)」は三十カ国以上に翻訳される大ベストセラーとなり、世界に「赤い中国」「革命中国」「毛沢東思想(Maoism)」「農本主義」を強く印象づけ、各国の知識人や政治、大衆運動、ヒッピーなどの対抗文化に大きな影響を与えた。
特に当時のフランスでの毛沢東熱は非常に高く、パリの五月革命では運動の連帯を強固なものにする重要なイコンとなった。
反文化大革命、反中国 ...批林批孔運動[編集]
1973年8月から1976年までの「批林批孔運動」は、林彪と孔子及び儒教を否定し、罵倒する運動。中国の思想のうち、「法家を善とし儒家を悪とし、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされ、林彪はそれを復活しようとした人間である」とする。こうした「儒法闘争」と呼ばれる歴史観に基づいて中国の歴史人物の再評価も行われ、以下のように善悪を分けた(以下には竹内実『現代中国における古典の再評価とその流れ』により主要人物を挙げる)。
この運動は、後に判明したところによれば、孔子になぞらえて周恩来を引きずり下ろそうとする四人組側のもくろみで行われたものであり、学者も多数孔子批判を行ったが、主張の学問的価値は乏しく、日本の学界では否定的な意見が強く、同調したのはわずかな学者にとどまった。武則天が善人の中に入っているのは江青が自らを武則天になぞらえ、女帝として毛沢東の後継者たらんとしていたからだといわれる。
小説家の司馬遼太郎が行った現地リポートによれば、子供に孔子のゴム人形を鉄砲で撃たせたりもしていたという。
幼少の頃に文化大革命に遭遇し、後に日本に帰化した石平は、「この結果、中国では論語の心や儒教の精神は無残に破壊され、世界屈指の拝金主義が跋扈するようになった」と批判。